「大地はささばはづるるとも虚空をつなぐ者はありとも・潮のみちひぬ事はありとも日は西より出づるとも・法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず、法華経の行者を諸の菩薩・人天・八部等・二聖・二天・十羅刹等・千に一も来つてまほり給はぬ事侍らば、上は釈迦諸仏をあなづり奉り下は九界をたぼらかす失あり、行者は必ず不実なりとも・智慧はをろかなりとも・身は不浄なりとも・戒徳は備へずとも・南無妙法蓮華経と申さば必ず守護し給うべし」(御書全集1351~1352頁)


私にはかなり昔のものですが、ずっとプリントアウトをして毎日かかさず読んでいる人の体験談があります。1日1回、もう何年も読んでから御本尊に向かっています。

同じ人間なのに私の“祈り”は他の人のより叶わない・・・

ある日、自分なりにぶち当たった壁。

そんな時、この体験談を知りました。

祈るってことは、、、信じてなきゃダメなんですね。

迷ったり弱ったり・・・

自分の祈りが届かない理由がこれを読んでわかったんです。

これはネット上で検索できる有名な体験談です。


※ちなみにダウン1時間で南無妙法蓮華経と唱えられるのは、約3000遍=3000回です。


平成8年3月10日

K.Eさんの信仰体験

私の母は、小学校の時から信心しており、18才の時岐阜県の電気もない山奥から名古屋に就職してきました。就職先の社長の息子が父です。恋が芽生え二人は結婚したいと社長に話しましたが、大反対されたのです。「何万という女の子の中から、なぜ目が不自由で(母は小さい頃から目が不自由で真っ黒い大きな眼鏡をかけていた)、片親で、創価学会に入っていて、山奥から出て来た得体の知れない女の子を選ぶのか」と言われました。父はあきらめきれずに一年後くらいにもう一度頼んだところ、社長は「結婚するなら次期社長としての仕事もなくなるし、財産も与えないし、戸籍からもはずす。それでもいいか」と言われ、二人はなんと駆け落ちをして結婚しました。名誉も地位もなく、生活を始めた所が四畳半の部屋でした。こんな貧乏のどん底で生まれたのが長女の私で、二人の弟も次々と生まれました。二人は仕事もなく、まんじゅうを箱に詰める内職をして暮らしました。私が物心ついた頃は両親の愛も冷めかけ、働けど働けど残るのは疲労感と空腹感だけで、五人で一合のご飯を食べ、おかずは内職で詰めているおまんじゅうのはみ出したあんこでした。私が「あんこがおかずなんていやだ。気持ち悪いよー」と言うと、母は「あんこをご飯と思うから気持ち悪いんだ。おはぎと思いなさい」と言って食べさせました。結婚するためだけで入信した父は、そのうち御本尊様を見るたびに「この紙切れがあるからうちは不幸なんだ。大体おまえと結婚したことが不幸の始まりだ」と言って母に殴る蹴るの暴力をふるい、御本尊様を何度も破ろうとし、捨てようとしました。そのたびに母は御本尊様を守ってきました。

 こんな中、兄弟三人は「こんな貧乏で喧嘩の絶えない宗教は絶対にしないでおこうね」と誓い合っていました。中学の時も、社会は豊かなのに、我が家は学校に持って行くお弁当がおにぎりだけでした。朝、母が一個にぎるのに20分くらいかけるのです。いじめられないようにとおにぎりに題目を送っていたんです。そのおかげでいじめられるどころか皆が嫌いなものをくれるので、それをおかずにして食べました。私はそれを弟達の教室へ持って行き、弟達にも分けてあげました。友達はにんじん、ごぼう、ピーマンなどを残すと母親に叱られると言い、嫌いなものをもらってくれる、と逆に感謝され、おかげで私は健康で病気もしませんでした。父が家へ帰らなくなり、借金取りが来たりして、母は一人で三人の子供たちを守ってきました。私はこの御本尊様を捨ててしまえば幸福になるのではないかと、何度も母に言ったりしました。ある時、お菓子会社に七軒の人がだまされ莫大な借金を背負いました。そのうち五軒が夜逃げをし、一軒が一家心中をし、残ったのが我が家でした。父は寝込んでしまい、母は明るく「お父さん頑張ろう。うちには三人の宝がいるんだから」と言って、昼は内職、夜は土方のような仕事に行くのです。ある日、夜中にあんなに元気な母が泣きながらお題目をあげている姿を見た時、こんなちっぽけな女の人がこんなに強くなれるんだから、この御本尊様にはすごい力があるのかなと、ちょっぴり子供心に思ったんです。

 高校三年の時に、家族を幸福にするのは私しかいないと一人発心し、いい大学に入り、いい会社に入ってお金持ちと結婚するんだと思いました。お題目をあげることを知らなかった私は、学校から帰ると8時間も勉強し、先生も手作りの問題集で応援してくれました。一年間本当によく勉強し、友達からも先生からも絶対受かると言われた国立名古屋大学を受験することになったんです。ところが、受験日の三日前に交通事故にあってしまい、意識不明になり入院。病院で意識が戻った時、昨日が受験日だったと聞かされました。その時私の夢はガタガタと崩れ落ちていきました。そのどん底に落ち込んでいた時に、母が枕元にやって来て、「これが宿命よ」と追い打ちをかけるように言いました。おまけに今度は父がにこにこしながら「おまえの左足はあまりに強く打ち過ぎて砕けてしまった。放っておくと骨肉腫になるので3cmくらい骨を削った。おまえは身体障害者になったぞ。すごいんだぞ。手帳がもらえて電車もバスもただで乗れるぞ」と明るく言うのです。こんな両親の元に生まれた私は、世界で一番不幸者だと思っていました。しばらくして父が「そんなに勉強が好きなら、二年間くらいゆっくり体を休めるために、専門学校でも行ったらどうだ。自分の金でな」と言うのです。自分のお金でいくことになった所は、論文試験だけの誰も知らない五流短大で、栄養士になれる学校でした。

二年後、就職活動に入りました。先生は「君は体が不自由だが明るいので、同じ境遇の人を元気にしてあげられるから、福祉関係の仕事についたらどうだ。給料は半分くらいだが、やりがいがあるぞ」と勧められたのです。どうしても高校三年生の時に思った夢があきらめきれず、先生の反対を押し切ってある一流商社を訪問したのです。ところが、採用する大学は決まっていて、その他の学校からは400人中3人くらいしか入れないと言われ、それにはコネがいるとのことでした。なんと自分はちっぽけな人間なんだろうと悶々としながら帰る途中で、またもや交通事故にあってしまいました。幸い右の腰の打撲ですんだのですが、救急車で運ばれる時思った事は、これが母の言っていた宿命なのかな、人生の大事な時に自分の体を傷つけてしまう、そういう宿命だとしたら、早く消さなきゃ、就職も結婚もできなくなってしまう。ひょっとしたら題目をあげると消せるのかな・・・。

 そんな時、女子部の部長から電話で「今度、中部で全国女子部幹部会があり、秋谷会長と佐野女子部長(当時)が来られるんですが、来ませんよね?」と言うので、私は「行きます」と言って、初めて学会の会合に参加したのです。その時女子部長が「皆さん一千万遍のお題目をあげて宿命転換していきましょう!」と明るく言われました。そうか宿命転換のカギは一千万遍のお題目なんだと思い、どうやってあげるのかと女子部長に聞きました。「そうね、一日2時間半か3時間くらいを3年か4年あげると、一千万遍あがるらしいよ」「らしいって、あげたことないんですか?」「あげたことないからすごいのよ」と言われました。その時、不可能が可能になる御本尊と言われたので「本当ですか?」「本当よ」「今、就職したい会社があるんです」「どこですか?」「○○商事です」「時々叶わないこともあるわよ」「叶わないんですか?」「その人にとってよくないことは叶わないよ」私はその日から一日一万遍のお題目を4年間、一日も欠かさずにあげ切ったのです。

 百万遍くらいあげた時、ホテルの地下の食堂でアルバイトをしていた頃です。毎週土曜日になると恰幅のいいおじさんが私を指名して、カレーライスを注文するのです。そのお客さんがなんと東京の○○商事の鉄鋼部の部長だったのです。二年間私を指名して応援してくれていて、私が「○○商事に入社したいから、ここには就職しないんです」と言うと、翌週一緒に会社に行ってくれ、紹介状を書いてくれ、試験が受けられることになったんです。試験の前日いつも無口な弟が、名古屋オリンピックがどうしてダメになったかを1時間半話してくれたんです。「わかった。お姉ちゃんはあと一時間題目をあげなきゃいけないからね」と返事をしました。翌日の論文試験のテーマがなんと「名古屋オリンピック」だったんです。この時ばかりは鳥肌が立ち、御本尊様、なんてことしてくれますかと思いました。前日弟から聞いたばかりの話を原稿用紙10枚に完璧に書き上げました。そして、見事採用枠の三人の中に入っていました。最初の二人はすぐ決まり、あと一人を決める時、身体障害者である私を、税金が安いからということで採用してくれました。就職してから私の人生は180度変わりました。洋服を買っても買っても、ご飯を食べても食べても、家族にお金をあげてもあげても、お金が余ってしまうのです。お金ってあるところにはあったんだなあと思いました。

 半年後社内で海外研修へ行く人の募集がありました。社員二千人の中から七人が試験で選ばれるのです。下手だったワープロも試験当日は手が勝手に動いてしまう感じで、誤字脱字のない速打ちで一番を取ってしまいました。面接の日は普段あまり読まない新聞に目を通していくと、試験官からスギについて知っていることを言いなさいと言われ、朝読んだばかりのことを話しました。またもや七人の中に選ばれ、そのことでお給料が二倍になってしまいました。海外研修に行ったほかの六人は30代後半か40代の人でしたが、移動が多いため、一ヵ月の世界一周の研修半ばで、みんな倒れていきました。元気なのは私一人で、レポートを書いてあげたり一生懸命尽くしました。「なぜあなたはそんなに元気なの?」と聞かれたので「元気の素はこれです」とお経本を見せました。そして全員で勤行をし、元気で帰ってくると六人とも御本尊様をいただくことになりました。四人は結婚し幸福になっています。折伏って年数や教学じゃなく、元気が一番なんだなと思いました。お題目をあげると人生がこんなに面白いように変わるんだと楽しくなり、早く一千万遍あげようと思いました。

 その頃から家では、父の背中を見て一家五人が朝六時半に勤行するようになりました。父の友人が悩み事を抱えていて、その人は父に朝晩一遍でいいから題目を送ってくれと言いました。翌朝、南無妙法蓮華経とたった一回唱えた時、父は突然バケツ一杯の血を吐きました。医者に行くと喉頭ガンと診断され、放っておいたらあと半年の命であることがわかりました。母は「お父さんあと半年の命だって。さんざん私をいじめ、池田先生の悪口言ってきたからしょうがないよね。手術して声が出なくなっても題目をあげよう」と言いました。それから二年間、父は死ぬような苦しみを乗り越え、病院のベッドで毎日10時間のお題目をあげて完治しました。下の弟は中学を出ると板前の修業に行くと行って独立しました。下宿の大家さんが学会員で、ある時家賃が払えなくなって行き詰まった時、御本尊様をいただきました。上の弟は大学へ行き、自分がこんな人になりたいと思っていた先輩が学生部の部長で、その姿を見て信心するようになりました。


私もその頃は女子部の本部長になっていました。毎年、身体障害者の申請のために身体の検査があります。ところがこの時の検査で、骨が伸びていて両足が同じ長さになっていることがわかり、障害者手帳は出せないとのこと。晴れて私は普通の人になりました。それ以来、電車もバスもお金を払って乗っています。

その頃父が考案したお菓子が当たり、特許をもらい、お菓子会社から300坪の土地に200坪の工場、100坪の家を建ててもらい、七軒長屋から引っ越して気がついたら家族五人が使っても使ってもなくならないという経済革命ができました。二十項目くらいあげていた願いが全部叶っていました。あと一千万遍あげて目標だった結婚をしようと思いました。結婚した相手は同じ○○商事の人で、ちょっと変わった人でした。創価学会について知りたいと言ってきたので、トインビー博士と池田先生の対談集を見せたら、感動して眠れなかったと言いました。さらに「人間革命」を読むと、「お花もお茶もいい師匠につけば上達する。人生においてもこんなにすごい師匠につけば間違いないですね。僕も創価学会に入りたいです」と言うのです。私は、朝晩勤行して毎日一万遍のお題目をあげて新聞啓蒙するのよと教え、結婚するまでずっと続けました。そして結婚してからも八年間二人で題目をあげ続けています。

二人目の子供が生まれた時おへそのとれ方が悪く、腸がおへそに入り込み、ふくれあがってしまいました。今は手術ができないので、様子を見ようということになりました。三日目におへそがカチカチになり、血が逆流し、顔が真っ青になってしまいました。千代の富士の子供と同じ突然死だと言われましたが、心臓が動いているので、身体を柔らかくする注射を打ち、手術をすることになりました。その三日間主人と二人で十時間の唱題をしました。人生の中でどんなに自分の力をふりしぼってもどんなにお金を積んでも叶わないことがあるんだ、もう題目しかない。これ以上この子のためにしてあげられることはないというくらい題目をあげ切りました。手術前の最後の面会に行き、身体をさすりながら「絶対生きて帰ってきて」とお題目をあげると、出ていたおへそが引っ込み、手術ができなくなりました。そして三日間72時間題目をあげ続け、身体をさすりました。三日後に身体がふわっと柔らかくなりピンク色になりました。そしてお腹が空いたような泣き声をあげたのです。それから二年間通院するように言われ、二年後病院の先生から「研究費です」と50万円を出されました。今までだったらお金に執着していたと思うのですが、その時ばかりは50万円が紙切れに見えました。お金はいらないと思いました。生命より尊いものはないと思いました。学会活動とお題目がいざという時救ってくれるんだ、毎日その因を積んでいるんだ、本当にありがたいなと思い、21世紀まで目標を決め主人と二人で毎日題目をあげています。題目のすごさは語り尽くせませんけど、一人でも多くの人に語っていきたいと思います。学会員で良かったなあと感謝する毎日です。




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