先日、読み物をしていたら、面白い話がありました。

 

主人公の友人に人生上、とても大きな損失があり(とは言ってもお金のことではありませんが)、大丈夫だろうかって心底、心配していました。主人公にとってはとても大切な友人(だと思っていた)なので、「僕は何もしてあげられないけど、遠くからがんばれーと、心を寄せているいる人がいるよ。幸せになって!」っていう話でした。主人公は、その時は運よく、健康で家族や友人、仕事に恵まれていた。ただ、その主人公も若い頃、壮絶な経験をしており、それを乗り越えて、現状を掴んでいた。主人公の願いは、単に自分も、周りの人も、幸せになりたいというだけ。主人公の友人はもともと様々な能力に恵まれ、主人公の憧れやった。その友人を思い、単純に「心が安寧になって、幸せになってほしい」と願っていただけ。

その友人は、「俺は不幸なんかじゃない。これっぽっちも。」と言う。主人公は言葉を無くした。「僕が周りの人の幸せを願うのは、僕が『上から目線』、『思い上がり』になってるんだろうか?」と。主人公が若い頃の壮絶な経験をしていた時に、それこそ名もない近くの友人に「頑張れよ!」って微笑みながら小さな声で言われ、その人の目が限りなく慈愛に満ちてて、「今こそ、頑張らないと」と、折れかけた心をもう一度立て直すことができ、それから後の人生が慈愛に満ちたものになっていくという、わかりやすい話でした。

 

人を思う心は、『上から目線』なんでしょうか?他の人に優しい思いを寄せるのは、自分の思い上がりなんかな?確かに今も能登では大変な生活を強いられて、大切な人を亡くして、絶望の淵にある人がたくさんいる。その人達に思いを寄せるのは、確かに自分に良い日常があり、その上で「頑張って!」と言ってる。でも、人の幸せを願うことが、思い上がりだとしたら、世の中、なんだか切ない。

僕は、仮に思い上がりだとしても、損失のある人の傍で、心が立ち直るまでいてあげたい。それを拒む主人公の友人こそ、思い上がりなのではないかと。それでもそういう気持ちになることもあるって思い、仮にずっと理解されないままだとしても、ずっとその友人を思っていてあげたい。

 

こういうの、難しいね。人の幸せって、それぞれの心にあるから、それに踏み込むわけにいかない。幸せの種類も違う。自分の価値観を基準にしてしまうと、単なるおせっかいで、更に他人を傷つけることにもなりかねない。難しい…