僕は4年ほど前に亡くなった両親の家を保持するのに、民泊・Shimonada Hausをしています。たまたまデッキから広がる海が見えて、静かな場所の一軒家なので、予約が取れにくい民泊となっています。今は日本人だけでなく海外からのお客さんも多いです。

 先般、数年前に、伊予市に移住してきた人とそのお友達が、Shimonada Hausに泊まりに来てくれて、「ご一緒されませんか?」と美女3人誘われ(後で彼女達の友人であるおっちゃんが乱入(笑)してきました...)、デッキでBBQをしながら、いろんな話をしました。その時の話です。

 

 僕が知らない間に、圧倒的コンサバ人間になっているのかもしれませんが、地域に入り込んで活動をする彼女たちに、何とも言えない「波長の違い」を感じるのです。確かに下灘も含めどこに行っても、そこに住んでる人は基本的にお年寄で、多数決という民主主義のもとでは、若者や、新参者の意見は通らないし、お年寄りに何か新しいことを期待することもできない。その中で移住してくる人達は、何かを起こそうとするから、摩擦もあるだろうし、大変だと思う。そのことに関しては、彼女達に感謝こそあれ、何の不満もありません。

 ただ、とても表面的な部分だけを飾っているような気がしてなりません。いろんな企画を出して運用するけど、「それ、補助金なしで、本当に運営できる?」「それをやって、家族が普通の生活ができる経済力を得ることができる?」って感じてしまうんです。

 「お金以上に大切なことがあります!」もちろんです。 「年収200万で幸せに田舎暮らしを楽しむ!」なんてことを以前高知県だったかに移住している人の話を聞いたことがあります。将来、結婚はどうするの? 子供が生まれたら? 結婚はしません!子供は持ちません!良いんだけど、いずれ結婚し子供を育ててきた人達の頑張りの上に、胡坐をかくことになりませんかね?って感じてしまうんです。高校生や大学生が、部活やサークルで汗をかいて充実!達成感!感動!って、ありましたよね。彼らの活動が、何だか、それの延長線上を感じてしまうんです。

 「生活」って、地味で、ある意味退屈で、ニュースにもならないことばかりだけど、実はその地味で、退屈で、普通の暮らしが始まる朝に聴く鳥の鳴き声、新緑の芽吹きの匂い、終わった時に涼やかに吹く風と一緒に見る夕陽にこそ、本当の幸せや達成感ってあるように思います。やってる最中は、何事も苦しかったりしたとしても、終わると時間経過の早さを感じるし、達成感もあるし、確かな自分の歩いてきた道を振り返ることもできる。
 

 もちろん、いろんな人がいていい。田舎の人たちも大らかに受け入れる心を持たないと、自分たちの息子や娘が戻りたがらない自分の場所に、来てくれている若者がいる。つまらん民主主義のお陰で、限界に近付いている場所だらけなんです。お年寄りたちにも目を覚ましてほしいけど、ダメなら早めに目を瞑ってほしい(?極端な言い方で恐縮です!) 

 

 ともあれ、僕は彼らとは波長の違いを感じているけど、違いを受け入れて、お互いが良いように機能しあっていければいいなと感じつつ、シモナダハウスのゲストと時々話をするのがとても楽しいです。ちなみに、シモナダハウスの宿泊予約はAirB&Bのみで受け付けています!