宏美さんが敬愛してやまないダイアナ・ロス初の全米No.1ヒット曲(1970)である。だが、オリジナルはダイアナではなく、マーヴィン・ゲイとタミー・テレルのデュエット曲(1967)だそうだ。作詞・作曲はニコラス・アシュフォードとヴァレリー・シンプソン夫妻。ニコラスがニューヨークに住んだ時、「大都会には負けない!」という想いで作ったと言う。

 

 ダイアナ盤は、歌詞もアレンジも大胆な改編がなされ、ダイアナによる“語り”がメインになっている。オリジナル盤とダイアナ盤を両方お聴きいただこう。

 

 

 

 また、時代順としては宏美さんがコンサートで歌っていた方が先になるが、私個人としてはウーピー・コールドバーグが主演した『天使にラブソングを 2』のエンディングで使用されたものも思い出深いので、併せて紹介しておきたい。

 

 

 さて、眞峯隆義氏が『岩崎宏美論』で整理された通り、この曲は宏美さんが10〜20代の頃、コンサートで繰り返し取り上げていたナンバーである。だがレコード時代に音盤化されたのは『ライブ&モア』(1979)のみであって、1982、83年のものは当時はLPには収録されず、映像のみが商品化された。2007年にROYAL BOXとして復刻された際、音源のみのCDにも収録されたのだ。

 

 私が初めてこの歌を聴いたのは、1980年1月の隣町の公演でのこと。宏美さんの凄まじいまでの美声と声量に圧倒されながらも、この原詞の持つ力強い普遍性にも感動していた。

 

♪ Ain't no mountain high enough

 Ain't no valley low enough 

 Ain't no river wide enough

 To keep me from you

 

 単なる恋人同士の愛情というより、人と人とを繋ぐもっと大きな愛、深い絆を連想するのだ。そして私は、世界中の人々から親しまれているであろう、ディズニーの「It’s A Small World」の歌詞を思い出した。

 

♪ Though the mountains divide

 And the oceans are wide

 It's a small world after all

 

 「山々は隔て、大洋は広いが、結局は一つの小さな世界」と謳うウォルト・ディズニーの理念との間に、類似性を見出したのだ。

 

 さて、話を元に戻そう。ご自身がライナーノーツでも触れている通り、宏美さんのバージョンはダイアナのものをベースにしている。79年のものは訳詞:楡けいこ、編曲:前田憲男だが、82〜3年のものは訳詞:山川啓介、編曲:小野寺忠和である。この2つのバージョンも若干趣を異にしているので、比較しながら話を進めたい。

 

 内容・訳詞の違いについては、すでに眞峯氏が指摘された通りである。若干補足するとすれば、1979年の楡さんの訳詞は、台詞部分は日本語に訳し、歌唱部分は原詞を生かしてそのまま歌唱されている点が挙げられるだろう。

 

 1982年以降の山川さんバージョンは、私が当時チマチマ付けていたコンサート・レビューによれば、82年の3月から84年の3月までに参加したコンサートでは、その全てで2部のラストまたはアンコールで歌唱されている。山川さんが当時宏美さんのステージのために訳された他の楽曲を考えても、より具体的にコンサートの最後に、宏美さんから聴衆へのメッセージ・ソングとして歌われることを前提とした訳詞だと思えてならない。

 

♪ 歌うことしかできない 私だけど

 あなたの心の重さを

 少しは 軽くしてあげられるでしょう

 

♪ あなたのために 歌いましょう愛の歌

 

 また、両バージョンのアレンジというか、キー設定の差にも着目したい。ダイアナのバージョンも含め、一度リフレインが終わった後、転調してブラスの華やかな間奏が入る。今回ブログを書くために聴き直したら、面白いことに気づいた。前田バージョンは、転調の仕方が違うのである。

 

●ダイアナver.…E♭メジャー→G♭メジャー(短3度上)

●前田憲男ver.…Dメジャー→E♭メジャー(短2度=半音上)

●小野寺忠和ver.…Cメジャー→E♭メジャー(短3度上)

 

 キーを下げるのは、ダイアナと宏美さんの音域の違いから考えて理解できる。だが、79年の前田バージョンが、ダイアナ盤と転調の仕方を変えてまでこのキーに設定した理由は何だろう。私の推測は以下の通りだ。

 

 前田さんは、宏美さんのボーカルという楽器が、最もよく鳴るレンジに設定することを最優先したのではないか。つまり、小野寺バージョンの歌い出しのキーでは、やや低くて最も美味しいレンジではない(79年と82〜83年では、微妙にだが明らかに、宏美さんの音域は変化して来ている)。と言って、最初のキーを高くすると、転調後が高過ぎて地声では歌い切れない。そこまで計算して、このように転調の仕方を変えてまでキー設定を優先したと考えられる。実際、79年のライブでは、♪ Hu u…などの超高音スキャットを除いては、歌詞の部分は全て(上のE♭まで!)地声で歌い切っているのである。

 

 

 小野寺バージョンでは、転調の仕方はダイアナ盤に従っている。歌い出しのキーを下げ、転調後のキーは前田バージョンと同じである。だが82〜3年のライブでは、部分的にファルセットを用いている。その3〜4年間の声質・音域の変化と、英語詞ではなく日本語詞ということも関係あるかも知れない。

 

 

 眞峯氏もご指摘の通り、79年のライブがまさに青春の1ページで若いパワーと強靭な喉、そしてノリで押し切る歌唱だったのに対し、82〜3年のそれは、年齢と経験を重ねた表現力と説得力で聴かせる歌に変わって来たのである。

 

 この歌には、もう一つ忘れられないことがある。1985年8月6日、中野サンプラザホールで行われた『ホーメスト・ライブ』という催し(抽選で当選した人だけが参加できる)でもこの曲は歌われた。独立後、まだコンサートの開けない時期で、貴重なライブだった。その模様は、FM東京で8月12日に放送されたのである。

 

 そのコンサートのラストナンバーで、「エイント・ノー・マウンテン・ハイ・イナフ」は披露された。だが、FMで放送された時、この曲が一旦終わり、リフレインが繰り返され満場の拍手が鳴り響くところで音量が絞られ、ニュース速報が流れたのだ。そう、日航ジャンボ機墜落事故の第一報である。あまりにも悲惨な事故の衝撃の大きさで、しばらくの間、私はこの放送を録音したテープを聴くことが出来なかった。この曲を聴くと事故のことを思い出してしまい、辛い時期があった。

 

 悲しい思い出を書いてしまい申し訳ない。最後は宏美さんの映像を見ていただこう。

 

 

 とまれ、宏美さんが10代から20代の頃に足繁くコンサートに通ったファンならば、この「エイント・ノー・マウンテン・ハイ・イナフ」は、名だたるヒット・シングルにも匹敵する、いやある意味ではそれ以上に思い入れの強い曲なのではないだろうか。

 

(1979.12.1 アルバム『ライブ&モア』収録)