Kindleにて読了

 

安岡正篤なる人物が、ほんの少し前の日本にいたことを知らなかったこと、これ自体は自分は無知だなと思う。年末に高城剛さんのメルマガでその名を知り、周りに言ったところ、本書が友人が勤めるグローバル大手日本企業の「若手社員向け講座の課題図書」となっていると言われたので、このセレンディピティを活かしても読んでみた。

 

まず結論から、論語は当然「漢字(1つの文字で多様な意味、読み方を持つ)」で書かれているため、その解釈に対して、人によって多種多様であることが分かった。またその解釈に対して、漢字の起源(成り立ち)までさかのぼり読み込んでいく、という作業が「論語を読む」ということだとも。となると、読み手側の教養を問われ、研究に費やす時間を必要とすると。

 

安岡先生も著書の中で「ただいまのように解釈しても少しも誤りではない、と私は思う」のように書かれている箇所が、あちこちで見られた。もちろん、自分で何もかも読み込むのは大変なので、誰かの解釈を「正」として論語を解釈することも、それはそれで全体感をつかむには良いことだとは思う。例えば、自分のよくやるマンガなどで。

 

どちらにしても、読み手の人物的なバックグラウンド、教養、その生きている時代のバックグラウンドなども加味して考えると、特に今の時代は変遷が速いので、いつまでたっても、読み手の「論語読みの論語知らず」という状況に陥り、奥が深いものだなと感じた。自分に振り替えると、現時点で、論語を「活学」することはいったんあきらめて、まだまだ広く浅くを取り組もうと思う。

 

孔子の哲学(儒教は宗教でなく哲学とする)は、普遍性があり、時代を超越したものであることは間違いない。ただ、この本においては時代にあっていない発言なども散見され、個人的には人に薦めるには躊躇する。ただ、それこそが、この本の持つパワーであり、単なる思想の押し付けでなく、これをきっかけに議論が起きることを期待する、という意味では、これを課題図書とする意義はあるのであろうか。

 

このもやもやが、もう少し自分の腑に落ちるまで、安岡正篤先生の他の本も、少し時間をおいて読んでみようと思う。