前回のブログから、10日間が経っていた。しばらく書いていないことはモヤモヤしていたが、時間が経つのは早い。

 

何度も読み返している、この1冊。何度読んでも、片っ端からすぐに忘れていくので、部分部分を開いて読み返している。今回は、P322~デカルトのところをメインに、ざっくり最後まで。その他、講談社まんが学術文庫『我思う、ゆえに我あり』と、まんがで読破『方法序説』も。

 

学校の教科書で覚えたのか定かではないが、「我思う、ゆえに我あり」ぐらいの言葉は、理系の自分でも知っていた。自分の場合は、言葉を発したデカルトすら知らず「ただ知っていた」(暗記していた)だけで、歴史をざっと学ぶと、この言葉の意味や重要性がよくわかる。言葉を発せられた時代の背景、そして前後(特に前)を知ることが、本当に重要であり、そこが人文学の楽しいところであると、今ははっきり言える。

 

当時のヨーロッパにおいて、キリスト教がいかに標準OSとして社会にインストールされていて、そのOSの範囲内で人々が物事を考えていたことが前提にある。だからこそ、この言葉が注目されている理由であり、デカルトが「近代哲学の祖」と言われるゆえんだと。本書の出口先生の言葉を借りると、「「我思う、ゆえに我あり」の登場で、人は神から完全に自由になった」とのこと。その一方で、デカルトは神の存在を証明した。ただただ、面白い。

 

今の自分たちから、キリスト教が標準OSだった、なんて言われてもピンとこないが、例えるなら、日本では「資本主義」が標準OSか。なんの意識をせずとも、ただ確実にそのOSに社会は支配されていて、お金が人によっては、まるで「神様」のようにあがめられる存在である。

 

ルネサンス、宗教改革、デカルト、飛んでフランス革命(ルソー他)、ヘーゲルの弁証法があって、キルケゴール(哲学者としてこの人が好き)やマルクス、そしてニーチェ、サルトルにいっての、レヴィストロースと。非常にざっくりした乱暴な流れだけど、感覚的にはつかんだ。

 

ただ、分からないのが、デカルトの後にある「カント」。この人のすごさ(実績)が、まだよく分からない。その画期的な発想=「コペルニクス的転回」については、今後じっくりと学びたいと思う。いつか、腑に落ちたらいいな。