ここのところ、
夜になると、
どうもスマホを手にしてしまう。
たとえば、
お風呂上がりの、
ほんのひとときです。
「今日は、
早く寝よう。」
そう思って、
ベッドに入る。
では、いったい、
なぜスマホを開いてしまうのでしょうか。
それは、
ちょっとした息抜きです。
ようするに、
日々の疲れを、
癒やしたいのです。
ここで、
軽い気持ちで、
動画サイトを開く。
「一本だけ、
面白い動画を見て、
すぐ寝よう。」
そう、
自分に誓うわけです。
本当に、
たった一本のつもりでした。
お気に入りの、
猫の動画とか。
料理の、
手際がいい職人さんの動画とか。
そんな、
短いものを一本。
それだけの、
予定だったのです。
でも、
問題はここからです。
一本の動画が終わる。
すると、
画面の隅に、
別の動画が出てくる。
『おすすめ』
というものです。
これが、
実に巧妙にできている。
「あ、
この動画も、
ちょっと面白そう。」
そう思って、
ついタップしてしまう。
それから、
どうなるでしょうか。
二本目を見る。
そして、
三本目を見る。
気がつくと、
関連動画の、
無限回廊(むげんかいろう)に、
迷い込んでいるのです。
これは、
恐ろしいことです!!
ただの、
小さな好奇心が、
巨大な時間を、
飲み込んでいく。
ようするに、
YouTubeの、
底なし沼です。
『沼(ぬま)』
なのです。
少し、
話しは変わりますが、
これは、
子どもの頃に読んだ、
『スイミー』という、
お話を思い出します。
大きな魚に、
立ち向かう、
小さな魚たち。
それと同じように、
私たち人間は、
巨大なアルゴリズムの波に、
翻弄(ほんろう)されている。
そう考えると、
なんだか、
壮大なドラマのようにも、
思えてきます。
では、いったい、
どうして私たちは、
その誘惑に、
勝てないのでしょうか。
それは、
人間の意志が、
あまりにも弱いから、
なのでしょうか。
もちろん、
それもあると思います。
でも、
それだけではない気がします。
もっと、
大きな、
構造的な問題です。
現代社会という、
めまぐるしい空間の中で、
私たちは、
常に、
何かを求めている。
安心感とか。
新しい情報とか。
笑いとか。
そういうものを、
求めてやまない、
『生命状態(せいめいじょうたい)』に、
なっているのです。
だからこそ、
次から次へと、
映像を求めてしまう。
一本見る。
さらに、
もう一本見る。
そして、
時計を見る。
そこには、
信じられない数字が、
並んでいる。
「午前3時」
という、
現実離れした数字です。
これは、
スゴイことです!!
いや、
スゴイというより、
恐ろしいことですが。
夜の静けさの中で、
スマホの光だけが、
自分の顔を照らしている。
まわりは、
すっかり寝静まっている。
自分だけが、
この世界の、
取り残された住人のような、
そんな不思議な感覚になる。
この、
『深夜の孤独』と、
『動画の快楽』が、
組み合わさったとき、
人間の時間は、
完全に、
コントロールを失うのです。
そう考えると、
一晩中動画を見てしまうという現象は、
単なる夜更かしではありません。
もっと深い、
現代人の、
心のあり方を、
示しているのです。
私たちは、
動画を見ているようで、
実は、
自分の心の隙間を、
埋めようとしているのかもしれません。
スマホの画面の向こうにある、
無限のコンテンツ。
それは、
現代の、
『蜃気楼(しんきろう)』のようなものなのかも、
しれません。
実体はないのに、
なぜか、
魅力的に見えてしまう。
そして、
それに引き寄せられてしまう。
では、いったい、
私たちは、
どう向き合えばいいのでしょうか。
すべてを断ち切って、
スマホを窓から投げ捨てるべきか。
いや、
そこまで極端にする必要は、
ないと思います。
たまには、
こういう夜があってもいい。
朝になって、
「あぁ、やってしまった」と、
後悔する。
その、
人間らしい後悔も含めて、
私たちの日常なのだと、
思うのです。
それに、
夜中に見た動画で、
意外な知識が身についたりもする。
意味のないように見えて、
案外、
人生のスパイスに、
なっているかもしれない。
そう、
ポジティブに、
捉えることもできます。
もちろん、
明日からの仕事や学校は、
眠気との戦いになりますが。
でも、
それもまた、
生きている証拠なのです。
一本の動画から始まった、
終わりのない旅。
それは、
現代を生きる私たちが、
避けて通れない、
小さな冒険なのだと思います。
だからこそ、
今夜もまた、
私たちは、
「一本だけ」と心に決めて、
スマホの画面を、
開いてしまうのです。