今日は、
本当に、
恐ろしい日でした。
大げさに聞こえるかもしれません。
でも、
私にとっては、
大事件なのです。
それは、
夕方のことでした。
キッチンに立ちました。
夕ご飯を作ろうとしました。
でも、
どうしても、
包丁(ほうちょう)を握りたくなかったのです。
なんだか、
手が重かったのです。
気力が、
まったく湧かなかったのです。
今日は包丁を使いたくない日でした。
ただ、
それだけの話です。
そう。
ただ、
それだけの小さな出来事です。
でも、
ここからが、
問題なのです。
では、
いったい、
何が起きたのでしょうか?
実は、
我が家の食卓が、
大変なことになったのです。
包丁を使わないということは、
どういうことでしょうか。
野菜を切れない。
お肉を切れない。
つまり、
料理の基本工程が、
すべて消滅するということです。
これは、
料理界の革命です。
いや、
文明の退化(たいか)と言っても、
過言ではありません。
ここで、
少し、
過去を振り返ってみます。
私たちは、
いつから包丁を怖いと思うようになったのでしょうか?
いや、
怖くはありません。
めんどくさいのです。
そう、
「めんどくさい」という感情です。
この感情は、
人間にとって、
最も強大な敵なのです。
では、
包丁を使わない代わりに、
どうしたのか。
キッチンにあるものを、
見渡しました。
ハサミがありました。
キッチンバサミです。
でも、
ハサミを使うのも、
なんだか負けた気がします。
手でちぎれるもの。
そう、
ちぎりキャベツです。
でも、
キャベツもありません。
冷蔵庫を開けました。
そこにあったのは、
冷凍のうどんでした。
冷凍うどん。
これは、
現代の救世主です。
お湯を沸かして、
ポンと入れるだけ。
包丁も、
まな板も、
いりません。
私は、
心から、
ホッとしました。
人間、
追い詰められると、
知恵が出るものです。
冷凍うどん。
素晴らしい存在です。
でも、
問題は、
ここからなのです。
うどんだけでは、
寂しい。
何か、
トッピングが欲しい。
ここで、
私のずぼら魂に、
火がつきました。
冷蔵庫の奥から、
ツナ缶を取り出しました。
そして、
マヨネーズです。
ツナマヨうどん。
これは、
果たして料理と言えるのでしょうか?
いや、
料理ではありません。
工作です。
調理ではなく、
ただの「組み合わせ作業」です。
お湯を沸かして、
うどんを茹でる。
器に移して、
ツナとマヨネーズを乗せる。
お醤油をひと回し。
完成です。
所要時間、
わずか五分。
私は、
そのお皿を、
食卓に運びました。
見た目は、
世にも奇妙な白い物体です。
湯気が立っています。
でも、
香りには、
なんの情緒もありません。
ただの、
炭水化物と脂質の塊です。
私は、
お箸を持ちました。
そして、
一口、
食べてみました。
……。
美味しいのです。
驚いたことに、
これが、
ものすごく美味しいのです!!
包丁を一切使っていない。
野菜も切っていない。
なのに、
なぜか、
胃袋にしみるのです。
ここで、
私は深く考え込んでしまいました。
私たちは、
普段、
どれだけ料理という名の呪縛に、
縛られているのでしょうか。
毎日、
ちゃんと野菜を切って、
お肉を切って、
バランスの良い食事を作らなければならない。
そんな「常識」という名の包丁を、
毎日、
心の中で振り回しているのではないでしょうか。
そう考えると、
今日のこの「包丁拒否事件」は、
単なるサボりではありません。
現代社会における、
一つの「反逆」なのです。
自分への優しさなのです。
ツナマヨうどんをすする音が、
静かな部屋に響きます。
ズズズ。
あぁ、
幸せです。
自分が幸せになる。
自分だけではありません。
私の胃袋が幸せになる。
そして、
料理をしなくてよかったという安堵感が、
私の心をも、
幸せに変えていく。
大げさですか?
いいえ、
大げさではありません。
日々の小さな解放感の積み重ねが、
人生を豊かにするのです。
もしも、
あのとき無理をして包丁を使っていたら、
どうなっていたでしょうか。
きっと、
イライラしながら野菜を刻み、
「なんで私ばかり」と、
暗い気持ちになっていたはずです。
そう、
包丁を持たないという選択は、
自分の心を守るための、
防衛本能だったのです。
人間は、
時には、
道具を置くべきなのです。
文明の利器を手放し、
野生の本能のままに、
ツナとマヨネーズをうどんに絡める。
そこに、
新しい真理が見えてくるのです。
大げさな話に聞こえるかもしれません。
でも、
毎日の生活の小さな選択が、
私たちの境涯(きょうがい)を決定づけているのです。
今日の私は、
「包丁を持たない人間」でした。
明日は、
どうなるか分かりません。
もしかしたら、
包丁どころか、
火すら使わないかもしれません。
お皿すら使わずに、
直接何かを食べるかもしれません。
そこまでいくと、
人類の退化ですね。
それは、
さすがに少し反省します。
でも、
今日という日は、
これでよかったのです。
本当に、
スゴイ晩ご飯でした。
洗い物も、
お鍋とお箸とどんぶりだけ。
なんて、
楽チンなのでしょうか!!
この感動を、
誰かに伝えたい。
世界中の、
今日夕飯を作るのが面倒だったすべての人に伝えたい。
大丈夫です。
包丁を握らなくても、
人間は生きていけます。
むしろ、
その方が、
元気になることだってあるのです。
そう考えると、
毎日の家事というものは、
もっと気楽でいいはずなのです。
完璧を目指さなくていい。
時には、
手抜きを全力で楽しむ。
それが、
長く生きるための秘訣なのかもしれません。
明日からは、
また普通の主婦に戻ります。
ちゃんと包丁を握って、
野菜を切る予定です。
たぶん。
きっと。
でも、
心のどこかでは、
いつでも冷凍うどんが私を待っている。
そう思うだけで、
なんだか、
明日も頑張れそうな気がするのです。
明日を頑張るための、
小さな隠れ家。
そんな場所が、
心のなかに一つあるということ。
それは、
じつに心強いことです。
たかが冷凍うどん。
されど、
冷凍うどん。
食べ物ひとつで、
こんなにも気持ちが軽くなる。
人間の心というものは、
本当に、
不思議なものですね。
ここで、
少し、話しは変わりますが、
私たちは普段、
どれくらいの「ルール」に縛られて生きているでしょうか。
朝起きたら、
顔を洗う。
朝ごはんを作って、
しっかり食べる。
お仕事に行って、
きちんとした格好で挨拶をする。
世間一般の「当たり前」というものに、
知らず知らずのうちに、
合わせて生きているのです。
もちろん、
それは大切なことです。
社会生活を営む上での、
素晴らしい知恵とも言えます。
でも、
ふと立ち止まって、
考えてみるのです。
そのルールは、
本当に、
絶対的なものなのでしょうか。
ここで、
疑問が湧いてきます。
では、いったい、
「きちんとする」とは、
どういうことなのでしょうか。
いつも笑顔でいること?
栄養バランスの完璧な食事を作ること?
お部屋をいつもピカピカにしておくこと?
それを全部やろうとしたら、
どうなるでしょうか。
きっと、
どこかで息切れしてしまいます。
心も体も、
クタクタになってしまうのです。
そう考えると、
「きちんとする」という呪いは、
ときには、
私たちを苦める鎖になってしまうのかもしれません。
だからこそ、
時には、
その鎖をはずす必要があるのです。
ほんの少しだけ、
ズルをする。
手を抜く。
さぼる。
そういう時間を持つことが、
実は、
生きる上で一番大切だったりするのです。
それと同じように、
人生の設計図も、
もう少し大雑把でいいのではないでしょうか。
完璧な人生なんて、
どこにもありません。
ちょっとくらい、
曲がっていてもいい。
ちょっとくらい、
遠回りしてもいい。
むしろ、
その方が、
人間らしくて面白い。
そう、
思えないでしょうか。
ここで、
もう一つの視点を導入してみたいと思います。
少し、
大きな話になりますが、
「自然(しぜん)」というものを、
思い浮かべてみてください。
森や、
山や、
川の流れを。
自然の中にあるものは、
すべて、
完璧な直線を描いているでしょうか。
木は、
まっすぐに伸びようとしますが、
風に吹かれて曲がります。
川は、
最短距離を流れるのではなく、
くねくねと蛇行しながら海を目指します。
でも、
だからこそ美しい。
だからこそ、
生命力に満ち溢れているのです。
人間もまた、
自然の一部です。
であれば、
私たちも、
曲がっていいし、
蛇行してもいいはずなのです。
いつも一直線に進む必要なんて、
どこにもありません。
疲れたら、
止まればいい。
お腹が空いたら、
冷凍うどんを食べればいい。
そうやって、
自分を許してあげること。
そこから、
本当の優しさが生まれてくるのだと思います。
自分への優しさは、
やがて、
他者への優しさにも繋がっていきます。
自分がリラックスできていると、
周りの人にも、
優しくなれる。
トゲトゲした言葉ではなく、
まるい言葉を使えるようになる。
そう考えると、
たかが夕飯の手抜きが、
世界平和の第一歩に見えてくるかもしれません。
ちょっと、
大げさでしょうか。
でも、
あながち間違いでもないと思うのです。
自分の機嫌は、
自分で取る。
これって、
生きていく上で、
最強のスキルなのかもしれません。
誰かに期待しすぎない。
環境のせいにしない。
「まあ、いっか」の精神で、
軽やかに生きる。
風のように、
水のように、
しなやかに生きる。
それができたら、
どんなに素晴らしいでしょうか。
もちろん、
明日になれば、
また新しい悩みが出てくるでしょう。
仕事のこと。
人間関係のこと。
未来への不安。
次から次へと、
波のように押し寄せてきます。
でも、
大丈夫です。
私たちの冷凍庫には、
いつでも、
あの白い麺が待っているのですから。
そう思うだけで、
心の中に、
小さなたき火が灯るような気がします。
いつでも帰ってこられる場所がある。
いつでも力を抜ける瞬間がある。
それさえあれば、
人間は、
どんな荒波の中でも生きていけるのです。
明日からはまた、
それぞれの日常が始まります。
満員電車に揺られ、
パソコンの画面と睨めっこし、
ため息をつくこともあるでしょう。
でも、
忘れないでください。
あなたには、
「手抜き」という名の、
最高の隠し玉があるということを。
いつでも、
あの手抜きご飯の境地(きょうがい)に戻れるということを。
そう思えば、
日々の生活も、
少しだけ愛おしく感じられるのではないでしょうか。
完璧じゃなくていい。
不格好でもいい。
今日も一日、
よく頑張りました。
自分に、
そう言ってあげてください。
そして、
温かいお茶でも飲みながら、
ゆっくりと目を閉じる。
明日という日は、
また新しい一日です。
あなたにとって、
肩の力を抜いた、
素敵な一日になりますように。
心から、
そう願っています。
それでは、
そろそろ、
眠ることにしましょう。
おやすみなさい。
ふと、
布団の中で、
そんなことを考えます。
眠る前の、
ほんの数分間の出来事です。
部屋の明かりを消して、
天井を見上げる。
すると、
静けさだけが、
部屋を包み込みます。
昼間の喧騒(けんそう)が、
嘘のように消えていく。
耳を澄ますと、
自分の呼吸の音だけが聞こえる。
これは、
とても贅沢な時間です。
私たちは、
普段あまりにも多くの音を聞きすぎています。
あまりにも多くの情報に、
囲まれすぎています。
スマホの通知音。
テレビのニュース。
誰かの話し声。
仕事のチャット。
次から次へと、
外から情報が飛び込んでくる。
脳が、
休まる暇を失っているのです。
では、いったい、
どうしたらいいのでしょうか?
情報は、
遮断(しゃだん)すればいい。
それだけのことです。
時には、
すべての電源を切る。
画面から目を背ける。
耳をふさぐ。
自分一人の世界に、
戻ってみる。
そうすると、
不思議なことが起きます。
外の音が消えたとき、
内側の音が聞こえ始めるのです。
自分の心の声が、
かすかに聞こえてくる。
「本当は、疲れていたんだな」
「本当は、頑張りすぎたんだな」
そんな、
自分の本音に気づくことができます。
それは、
とても大切な時間です。
誰のためでもなく、
自分のためだけの時間。
そう考えると、
眠る前のこの静かな時間こそが、
人生の中で、
最も価値のある瞬間なのかもしれません。
どんなに忙しい日でも、
どんなにうまくいかない日でも、
この静けさだけは、
誰も奪うことはできません。
あなただけの、
聖域(せいいき)です。
誰も立ち入ることのできない、
静かで穏やかな場所。
そこに身を委ねるだけでいい。
ただ呼吸をするだけでいい。
生きている。
それだけで、
十分ではないでしょうか。
何も成し遂げていなくても、
誰かに褒められなくても、
今日一日を生き抜いた。
それだけで、
ものすごいことなんです。
だから、
布団に入ったら、
自分をたくさん褒めてあげてください。
「今日もよくやったね」
「お疲れ様」
そう心の中で、
自分に声をかけてあげる。
誰に言われなくても、
自分だけは、
自分の味方でいてあげる。
それが、
何よりも大切なのです。
そうやって、
自分を優しく抱きしめながら、
眠りにつく。
朝が来れば、
また新しい光が差し込んできます。
鳥のさえずりが聞こえ、
コーヒーの香りが漂う。
そんな朝が、
あなたを待っています。
だから、
安心して目を閉じましょう。
夢の世界へ、
ゆっくりと旅立ちましょう。
心地よい眠りが、
あなたを包み込みますように。
おやすみなさい。
また明日。