天保十一年(一八四〇、庚子)旭荘は、 三十四歳

三月三日

 

 渓琴(菊池海荘)曰く、

「今日、仁科白谷を訪はんと欲す。請ふ先に往け。某(それがし)は将に姻家に過(よ)ぎりて、

遂に仁科氏を訪はんとす」

と。

 

 鷲尾街を経て、白谷の家の墻下に至るも、門を得ず。乃ち南に廻りて巷内に入る。

余は五年前に白谷を訪ふも、後に焉(これ)を移す。白谷は出でて迎へ、書楼に上る。

楼は東山に面して、西に洛中十万家を瞰(み)て、快なること甚だし。余は楼の名を問ふ。

白谷曰く、

「(比)叡・(愛)宕の二山を観るを以て、双峰と名づく」

と。

 

 渓琴は姻家にして、仁科氏を距(さ)ること遠からず。白谷は人をして渓琴を促して至らしむ。

主人は酒を供す。徹(さ)る比(ころほ)ひ、藤堂房弥太なる者、来たる。大昨年、余、家を発する時、

石井和一郎、余が為に房弥太に柬し、余は之を訪ふ。時に江戸に遊びて、未だ帰らず。今日、

始めて相値(あ)ふ。既にして渓琴は余等及び房弥太を導きて、長楽寺に遊ぶ。

此の日は暖かなること甚だしく、既に早桜を見る。遊人は絡繹として、雑擾に堪へず。

乃ち去りて、円山の麓を徘徊し、又た二軒茶屋に至る。東すれば遊客は百もて数へ、

諸室は皆満つ。余が輩は席を草上に設けて飲み、隣席の酔舞する者を観る。日没して、

白谷等は別れ去る。稲香は余を送りて逆旅(げきりょ)に至る。稲香は去りて、

未だ幾くならず、(矢上)快雨と日野鼎哉は来たり、余を導きて快雨の家に至り、小酌して宿す焉。

 

菊池海荘に就いてはウイキペディアに詳しい記事がありますが、旭荘との関係に就いては全く

記載がありません。