日暮里の天王寺の墓地に巨大に聳えている墓碑があります。東京帝国大学に新たに漢文学科を創設した島田篁邨の墓碑です。これを建てるには明治の当時に於いて巨額を要したと思われますが、門弟が多かった彼なればこそ、それが可能になったのでしょう。彼には長男の島田鈞一(東京文理科大学教授)と三男の島田翰(天才的な漢籍書誌学者)とがいたのですが、現在には墓参する人がいないような様子ですので、子孫が絶えたのかも知れません。私は、荊妻の父母等の墓がその近辺に在るので、荊妻の墓参りに伴した折には、それを眺めるのですが、縁あって彼の文集『篁村遺稿』全三冊(大正七年九月発行)を所有しているので、その中から彼の伝記を知る事の出来る一節を紹介しておきましょう。そうした作業は、従来、殆ど為されていないようだからです。原文は漢文ですが、それを訓み下しにします。
僕は年十三、四、狂愚にして自からは揣らず、史を読み古えの英雄豪傑の事業を観るごとに,
慨然として竊かに其の閒に意有り。以謂えらく「古人、豈至り難からんや。人人は自から勉めざるのみ」と。
常に儒術を以て表見する所有らんと欲す。然れども家貧くして計困しみ、志は大なれども才は掩れず。
加之ず羸弱を以て善く病み、徒爾に日を度(わた)る。歲月荏苒として、以て今日に至る。一日、伯姊
僕に謂いて曰く、「吾が兄弟は幼くして怙恃を喪い、丁零孤苦、備(つぶ)さに艱辛を甞む。
吾は一婦人にして、爲す所有ること能わず。島田氏の興らんかは、其れ汝に在り矣。島田氏の替らんかも、
亦た汝に在り矣。吾の汝に望む。汝の自から期する所は、將た何事ぞ。而るに怠惰なること乃ち爾り。
汝は其れ旃を念(おも)え」と。言い畢りて泣下る。僕は是より感激して自から奮い、益す樹立する所
有らんと欲して以て其の心を慰む。退きて自から念うに、「書を讀むには當に天下の大學に就くべし、
師を択ぶには當に方今第一の人を得べし。而して方今の泰斗は、其れ惟だ鹽谷(宕陰)先生ならんか」と。
乃ち之を伯姊に請い、之を親戚に謀り、甲子(元治元年、一八六四、二十六歳)二月を以て昌平黌に入る。
又た贄(にえ)を執りて先生に謁す。先生は僕を以て不似(愚か)とせずして、延(ひ)きて以
て教うべしと為し、誘掖開導し、懃懃懇懇として、之を耳提して面命す(懇切に教導する)。
以上は、ウイキペディアの「島田篁村」にも見られない記事です。篁村には少なからざる兄や姉がいたの
ですが、早く亡くなり、独り長姉だけがあって、これに養育されたのです。三男の翰の数奇な運命に就いては、
私は『大田南畝・島田翰と清朝文人』に詳述しました。却って、その父の篁村の伝に就いては言及していないので、
ここに補っておきます。