天保十二年((一八四一、辛丑、旭荘は三十五歳)

三月二十四日

 賢了の許に至る。主人は茶及び酒を供す。坐間、其の近作を誦す。中に「菜風 馥郁たるを迎へ、麦浪 軽寒を送る」の一聯有り。

 

余は曰く、

「此の一聯は的(たし)かに是れ春晩夏初の実景なり。然れども迎・送の二字は、字は対なれども、而かも意は対ならず。何とならば則ち迎ふる者は人なり、送る者は麦浪なり。「送」を改めて「覚」に作らば則ち皆 我に属して、物に属さず、彼此軒輊(けんち)(差や食い違いがあること)の病有ること無し」

と。

 

賢了は悦び、秀諦を顧みて曰く、

「先生の詩論は、微に入ること是くの如し」

 と。

 

 「麦浪送軽寒」と作れば、「送」の主語は麦浪となり、それでは上句の「菜風迎馥郁」の主語が人であることと対にならない。

 そこで「送」を「覚」字に改めれば、覚えるの主語は人でしかあり得ないから、「馥郁たるを迎ふ」の主語と同一になる。

 このような確たる理由のもとに旭荘は、一字を改めた。傑出した詩人の推敲過程が窺える逸話として興味深い。