天保八年(1837)、旭荘は三十一歳

『日間瑣事備忘』に言う。

三月十日

 

大坂の門人小林安石が旭荘に書簡を寄こし、大塩の変を詳しく告げる。

大抵、先に聞く所の如くであるが、異なる点もある。曰く、

 

「平八郎は建議して、大坂の決所(米会所)の金七万両を出し、

また豪商に命じて各家ごとに千五百両を出させ、摂津・河内の窮民を救おうと思い、

奉行の跡部氏に請うたが、許されず、平八郎はこれを恨んだ。

 

鴻池が諸侯に貸していた一万両を諸侯から返したが、平八郎は某に説いて、

これを出させようとした。某は肯(うけが)わず、奉行に訴えた。

 

 奉行は平八郎に話し、平八郎はこれを怒り、そこで悉くその家器衣服を販(ひさ)ぎ、

千余金(両)を得、また加島屋に説き、金千五百両を出させ、飢民を救おうとし、

そこで宣言した、

『奉行および豪商を殺さなければ、汝が輩を全く救う能わず』

と。

 

 そこで、その子の角之助をして奉行を刺させようとしたが、叶わず、

事が発覚したので、急に豪商数戸を焼き、奉行を討とうとした。諸侯が兵を発し、

奉行を救おうとしたので、平八郎は遁れ、行方が分からなくなった。そこで、

大坂の人は、平八郎が自分たちの家を焼いたことを恨まず、

皆、奉行を咎めているという」。

 

この辺りから、大塩を単なる反乱者と観ず、義民として扱う見方が出て来るようですな。