馬琴は、下駄屋商売を鬱陶しく思い、生業を変えるつもりで、加藤千蔭(ちかげ)翁(京伝の国学の師)の門人となって書を学び、下駄屋をしながら、手習いの師となったが、後には商いを止めて、手習いの師と戯作とによって口を糊(のり)した。戯作(黄表紙や噺本)及び読本(よみほん。和漢混交文でストーリーを述べる小説)という馬琴の作品が世に行われるようになってからは、手習いの師もやめてしまう。

 享和2年(1802。36歳)、馬琴が京阪に上って遊歴した折には、京伝自画讃の書画幅千幅を乞い、京伝の書画を広めるという事を狂文(滑稽文)に記して上木(じょうぼく。印刷)し、遊歴の諸国で売って、旅行の費用に宛てたことがあった。その時の狂文を刊行したものは、今も京山が所蔵している。

(以上、京山『蛙鳴秘抄』。徳田『近世物之本江戸作者部類』365、6頁)

 

 京伝の自画讃書画幅の報条(広告文)は、水野稔『山東京伝年譜考』に掲載されていますが、これを少しく表記を分り易くして、左に掲載します。

 

拙画、幸いにして世に賞せらるること久し。しかれども予、質弱多病、かつ世業に羈(ほだ)せらるるをもつて多需に応ずることあたわず。よりて約するに、自画讃千幅を限り、以後筆を絶ちて、また再画せず、すなわち添うるに手書をもつてし、記すに実印をもつてし、友人曲亭子に托して遠所の諸君の需(もと)めに応ず。後来遊歴の客携来し、愚画と称するも、手書実印なきはことごとく贋筆也。およそ四方の君子、印信を認得し、誤り給うことなかれ。 欽告 享和二壬戌夏 山東京伝

 

 京伝の自筆物が人気で、贋物も出まわったことが反映されています。

 

 

馬琴の京阪旅行の記録『羇旅漫録(きりょまんろく)』由井正雪の墓の図