小財陽平の「服部南郭・祇園南海先生書画合作帖(江戸南画雑記)」は、服部南郭・祇園南海の手による書画帖(早稲田大学中央図書館所蔵)に注釈を加え、その価値を検討したものである。従来、両者が親しく交流した痕跡は指摘されてこなかったようだが、この合作書画帖はかれらの交友関係をうかがわせるものとして注目される。南郭が詩面を担当し、南海が画面を描いた本作は、楊爾曾の撰にかかる『海内奇観』収録の銭塘十景を写し取ったものと考えられる。一七~一八世紀にかけて、『海内奇観』は、漢画の模範として尊重されたが、その実例としても、この作品を捉えることもできるだろう。

 

 徳田武の「市河米庵の「四十九生辰自壽吟」」は、徳島県名西郡石井町の遠藤家に保存される遠藤春足(はるたり。藍の豪商にして、石川雅望門の狂歌師)関係の古文書・書画類の中から市河米庵自作自筆の五言古詩「四十九生辰自壽吟」を取り上げ、現当主の弟の遠藤雅義氏の許可を得て、その写真を掲げ、訳注を施し、その資料的価値を説いたものである。詩句には、彼が参勤交代で加賀藩に赴く際には、旗二本と騎馬が許されており、諸士の先頭に立ち並ぶ、というものがあるが、それは本詩によって初めて知られる事実である。その他にも米庵の四十九歳の心境を知られる句が多い。

 

 神田正行の「阿公(くまぎみ)の星霜」は、『椿説弓張月』の琉球譚に登場する巫女阿公について、その本説を整理した上で、彼女の生涯を年代ごとにあとづけ、そこに多くの不整合が生じていることを指摘する。長編小説においては、各々の事件が年代的に矛盾することなく配置されるべきであるが、馬琴は『弓張月』の執筆に際して、この点に対する配慮を欠いていた、と言うものである。

 

 徳田武の「『南総里見八犬伝』第二輯注釈(下)」は、前号の第十一回から第十五回までの部分を承けて、第十六回から第二十回までの分を掲載したものである。底本に用いたものは、岩波書店から一九八四年十一月一日に発行された『南総里見八犬伝』の第一冊であり、一応、第一冊分を完了したことになる。同書は全十冊であるから、長大な『八犬伝』のほぼ十分の一を完了した事になるが、それ以降の原稿はまだ全然作っていない。これを続けるか否か、今は思案中であるが、筆者も七月には傘寿を迎えるので、健康や脳力(能力に非ず)とも相談せねばならない。しかし、相談した所で、結論が出るものでもないか。

 

 徳田武の「清河八郎の長崎行(下)」は、嘉永三年 (一八五〇 )七月三日に始まり、九月七日に至る、清河八郎の漢文紀行である『西遊紀事』(清河八郎記念館所蔵)の七月三日から同月二十日までの記事は 、( 上 )に於いて訳したのであるが、それを承けて、七月二十一日から九月七日までの部分を訳したものである。長崎という異国情緒あふれる街で、花月という有名料亭で女郎と遊ぶ描写は、勿論面白いものだが、軍事的な眼で九州の諸所の風土や風景を観察している事には、既に攘夷の志士に変身する萌芽が見出される。また、草場佩川・広瀬淡窓・頼聿庵などの著名の儒者を訪問し、揮毫を乞う叙述は、各人の未だ知られなかった日常を補足する貴重な資料的価値を備えている。