今朝(令和二年九月十二日)の朝日新聞の読書欄に、諸田玲子氏の小説『女だてら』の書評(大矢博子氏)が出ていた。江戸時代の女流詩人たる原采蘋の伝記を題材にした作、というものである。

 

 それによると、この作品は、采蘋の消息が不明な文政十年(一八二七)から文政十二年までの期間を小説化した、という。より詳細に大矢氏の文章を引いておこう。

 

  みち(采蘋の本名)は文政十年、秋月から江戸へ遊歴の旅に出た。ところが

道中の日記はなぜか兵庫で途絶え、文政十二年に浅草で存在が確認される

までの足取りがわからない。この空白の間に何があったのか?

 

 つまり、小説では、この二年ほどの空白期間に、采蘋の故郷である秋月の藩主相続の紛争に関する密書が彼女に托され、それを「公卿への奏上」を行うべく彼女が男装して旅をする、この旅の間に「敵か味方かわからない同行者に助けられたり(だま)り」する、設定ていしい。

 

 右の、あまり人が顧みない原采蘋という女流詩人を題材として、その実際の消息が不明な文政十年(一八二七)から文政十二年までの期間を小説化した、という作法は、近年、春山育次郎の『日本唯一の閨秀詩人原采蘋』(昭和三十三年発行。非売品。発行者 原采蘋先生顕彰会代表 戸原多助)を増訂して『増訂 原采蘋伝』(江戸風雅別集。二〇一三年十一月発行。コプレス)と改題して再刊した私に言わせると、『増訂 原采蘋伝』を参考書として成ったものではないか、と推測している。

というのは、一は、右書の一七八頁には、

  采蘋の発郷以来の詠詩の手控を見るべき『東遊日記』と題する詩稿小冊は、

  兵庫に筆を止め、爾後、江戸に達する迄、一詩を存せざるを以て、其の行程

  を尋ぬるに由なきも、

と、文政十年から十二年までの期間の消息不明が明言されているからであり、二は、春山氏の原著は今となっては稀覯書で、そう簡単には入手できない筈であるからである。三は、『増訂 原采蘋伝』が堅い本にしてはアマゾンで結構売れたからである。

 

 

 まだ諸田氏の『女だてら』を目睹していない私は、氏がそうした事に該書の後書きか何処かで言及しているかは、知らない。

 

 この文政十年から十二年までの期間の采蘋の消息不明を補うべく、私は、右の増訂書の一七九頁に、木崎愛吉・頼成一共編『頼山陽全伝』の文政十一年八月十二日の条に采蘋が五月三十日に入京し、頼山陽に面会し、六月初旬から梁川星巌の家に寄宿していたことが明記されていること、伊藤信著『梁川星巌翁』百五十八頁に星巌が同年八月二十七日頃、采蘋に「十二媛絶句」の一首を詠じさせていたことを明記している事実を挙げて、彼女の消息の一端を補足した。

 

 諸田氏がそうした新成果を取り入れてくれたか否か、やはり私はまだ確認していない。

 私は、別段、諸田氏を批判したりするために、そのように言うのではない。小説である以上は、氏がそうした新事実を氏の作為に沿うものとして取り入れるか否かは、氏の考え方一つに拠るからである。

 

 ただ、大矢氏に拠れば、「もともと歴史小説とは史実の隙間を推理するミステリーのようなものである」(賛成)し、「創作の力と史実の驚き、両方を堪能できる一冊である」と、この作品が史実にもなかなか配慮しているものであるらしいことが窺えるので、折角のそうした新史実が取り込まれているならば、歴史小説として、よりデテイルが充実するのではないかと愚考するからである。

 

 以上、再三断るように、私はまだ『女だてら』を目睹していないままに、この文章を書いているので、述べたような私の思いが少しでもどこかに反映しておれば、こうした文章を書く意味もあまり無いかも知れない。

 

 とにかく、女流書評家である大矢氏が「江戸時代にこんな女性がいたということに驚かされた」というように、江戸の女流詩人を主人公として女流作家が創作し、それをまた女流書評家が批評するとは、今やまさに女流文化の時代だ。大いに慶賀すべき事だ。しかし、一方では、世の男性諸君、奮起したまえ、とも言いたいのである。

 

 まだ実際に読みもしないままに、こんな文章を書くのは、一つには私が生来のおっちょこちょいであるからだが、一つには昨日、新聞に取り上げられたという情報のホットさを冷やしたくないからでもある。

 

           妄言多謝   令和二年九月十三日零時五分