「物のまぎれ」とは、男女間の公に出来ない密会を暗示する時に使用される語である。特に『源氏物語』の重大な事件を説明する際に術語として用いられている言葉である。しかし私は、以下のような理由で、正しい皇胤が紛れること、という意味をも含めて、この言葉を使用したいのである。つまり、男女間の密会が天皇や皇后の辺りで行われると、その子の血筋が紛れる、という問題が生じるからである。
さて、『源氏物語』の重大事件とは、次の三つのものである。
1 藤壺事件
光源氏が義母(父桐壺帝の後妻)である藤壺と密通し、その結果表向きには桐壺帝の子であるが実は光源氏の子である皇子が生まれ、その皇子が冷泉帝として即位し、冷泉帝が自身の出生の秘密を知ったことにより、実父である光源氏に譲位しようとしたが叶わず、その代わりに光源氏を太上天皇に准ずる待遇(准太上天皇)にした。
2 女三宮事件
柏木(男性)が光源氏の正妻である女三宮と密通し、その結果表向きは光源氏の子であるが実は柏木の子である薫が生まれた。
3 浮舟事件
浮舟が薫だと思って匂宮を迎え入れてしまった。
父帝の妻であり義母である女と密通した光源氏が今度は自分の正妻を盗まれ、子までなされる。その子がまた密通に関わる。一見、たいそうな乱倫の関係とそれが巡り廻る事件を扱っている。『源氏物語』が江戸時代の儒者からは「姦淫の書」として非難指弾された所以である。
しかし、仏教的世界観に支配されていた平安時代の作者は、このような、貴人にも、否、貴人だからこそ容赦なく押し寄せる因果応報、罪深い業報を描く積りであったのであろう。そのような因果応報は、当時の宮廷には珍しくもない事として作者の周辺に存在したのであり、それが物語の題材として取り上げられることは、自然な成り行きであったのであろう。
しかしそれは、皇位や王朝の正統問題―魏・蜀・呉三国の内、いずれが漢の正統を承けた王朝かという問題―を扱う儒家の別な観点を導入して言えば、皇胤の正統性に関わる重大事件を物語を貫く問題として設定したもの、とも捉え直すことができる。
そして、そうした主題を設定した点にこそ、単なる「もののあわれ」論(本居宣長)的な情緒的解釈を超越した所の、『源氏物語』の大きな功績が存在する、と考えられる。言ってみればそれは、柔らかい和文物語には珍しく、漢学的な硬派な思想問題をも扱っているのである。
かような、皇胤問題、正統問題を扱う『源氏物語』は、女帝問題が世間を賑わわせている現在において、以上の、また以下のような事柄を考えさせてくれる、という点においても意義ある古典作品なのである。
さて女帝問題であるが、『源氏物語』の物のまぎれ問題に触発されて私は、次のような問題に思いを巡らせる。
男帝が貴族以外の一般人民の女に男子を産ませ、その男子が天皇となった場合は、一応紛れもなく皇統が続く。一般人民の女に男子を産ませることは、血族結婚の弊害を避ける観点からは、寧ろ望ましい状態である。
女帝ないしは女帝候補が帝系以外の男と関係を持ったり、過ちを犯したりして男子を産み、その男子が天皇となった場合、帝系以外の男の血筋を持った天皇が生まれ、その血筋が続くこととなる。
こういうと、フェミニズム論者は怒って、帝の相手となった一般人民の女が外の男とも同時複数的に関係を持っていた場合、その産んだ男子が帝の実子である保証は無い、と反論するかも知れない。だが、天皇がお忍びで一般人民の女と関係を持つような場合にも必ず少数の従者を伴っていた筈で、そういう場合には従者が、何時、どの女と関係を持ったかという事を確認する役割を果たしていたのではなかろうか。はるか時代は下るが、徳川将軍の場合には奥女中がその確認役であったのだから、平安時代にもそのような故智があったのではなかろうか。
そういうと、またもやフェミニズム論者が反論して、女帝の場合にも、そうしたお目付け役がいたのではないか、と言うかも知れない。そうしたことを確認できる公家日記や古資料が残っているのだろうか。それが見つからないと、あるいは見つかっても、堂々巡りで、果てしない議論が続く恐れがある。ただ、女帝が一般人民との間に男子を産んだとすると、やはり男系の皇統が絶えてしまう。ということで、女帝には男帝の場合のような自由さが割り引かれるのである。ともかく古人には、そのような問題を防ぐ故智があったのかも知れない。
そこまで深く考えないと、軽々に女帝問題には結論は出せないのである。単にアンケートや欧米風のフェミニズムに基づいて結論が出せるような問題ではないのである。
なお、私が仮定した事柄は、すべて歴史上に存在したであろう事を想定して言っているのであり、当今の事柄を指して言っているものでは無い事を、現に断っておくものである。
さて、『源氏物語』の重大事件とは、次の三つのものである。
1 藤壺事件
光源氏が義母(父桐壺帝の後妻)である藤壺と密通し、その結果表向きには桐壺帝の子であるが実は光源氏の子である皇子が生まれ、その皇子が冷泉帝として即位し、冷泉帝が自身の出生の秘密を知ったことにより、実父である光源氏に譲位しようとしたが叶わず、その代わりに光源氏を太上天皇に准ずる待遇(准太上天皇)にした。
2 女三宮事件
柏木(男性)が光源氏の正妻である女三宮と密通し、その結果表向きは光源氏の子であるが実は柏木の子である薫が生まれた。
3 浮舟事件
浮舟が薫だと思って匂宮を迎え入れてしまった。
父帝の妻であり義母である女と密通した光源氏が今度は自分の正妻を盗まれ、子までなされる。その子がまた密通に関わる。一見、たいそうな乱倫の関係とそれが巡り廻る事件を扱っている。『源氏物語』が江戸時代の儒者からは「姦淫の書」として非難指弾された所以である。
しかし、仏教的世界観に支配されていた平安時代の作者は、このような、貴人にも、否、貴人だからこそ容赦なく押し寄せる因果応報、罪深い業報を描く積りであったのであろう。そのような因果応報は、当時の宮廷には珍しくもない事として作者の周辺に存在したのであり、それが物語の題材として取り上げられることは、自然な成り行きであったのであろう。
しかしそれは、皇位や王朝の正統問題―魏・蜀・呉三国の内、いずれが漢の正統を承けた王朝かという問題―を扱う儒家の別な観点を導入して言えば、皇胤の正統性に関わる重大事件を物語を貫く問題として設定したもの、とも捉え直すことができる。
そして、そうした主題を設定した点にこそ、単なる「もののあわれ」論(本居宣長)的な情緒的解釈を超越した所の、『源氏物語』の大きな功績が存在する、と考えられる。言ってみればそれは、柔らかい和文物語には珍しく、漢学的な硬派な思想問題をも扱っているのである。
かような、皇胤問題、正統問題を扱う『源氏物語』は、女帝問題が世間を賑わわせている現在において、以上の、また以下のような事柄を考えさせてくれる、という点においても意義ある古典作品なのである。
さて女帝問題であるが、『源氏物語』の物のまぎれ問題に触発されて私は、次のような問題に思いを巡らせる。
男帝が貴族以外の一般人民の女に男子を産ませ、その男子が天皇となった場合は、一応紛れもなく皇統が続く。一般人民の女に男子を産ませることは、血族結婚の弊害を避ける観点からは、寧ろ望ましい状態である。
女帝ないしは女帝候補が帝系以外の男と関係を持ったり、過ちを犯したりして男子を産み、その男子が天皇となった場合、帝系以外の男の血筋を持った天皇が生まれ、その血筋が続くこととなる。
こういうと、フェミニズム論者は怒って、帝の相手となった一般人民の女が外の男とも同時複数的に関係を持っていた場合、その産んだ男子が帝の実子である保証は無い、と反論するかも知れない。だが、天皇がお忍びで一般人民の女と関係を持つような場合にも必ず少数の従者を伴っていた筈で、そういう場合には従者が、何時、どの女と関係を持ったかという事を確認する役割を果たしていたのではなかろうか。はるか時代は下るが、徳川将軍の場合には奥女中がその確認役であったのだから、平安時代にもそのような故智があったのではなかろうか。
そういうと、またもやフェミニズム論者が反論して、女帝の場合にも、そうしたお目付け役がいたのではないか、と言うかも知れない。そうしたことを確認できる公家日記や古資料が残っているのだろうか。それが見つからないと、あるいは見つかっても、堂々巡りで、果てしない議論が続く恐れがある。ただ、女帝が一般人民との間に男子を産んだとすると、やはり男系の皇統が絶えてしまう。ということで、女帝には男帝の場合のような自由さが割り引かれるのである。ともかく古人には、そのような問題を防ぐ故智があったのかも知れない。
そこまで深く考えないと、軽々に女帝問題には結論は出せないのである。単にアンケートや欧米風のフェミニズムに基づいて結論が出せるような問題ではないのである。
なお、私が仮定した事柄は、すべて歴史上に存在したであろう事を想定して言っているのであり、当今の事柄を指して言っているものでは無い事を、現に断っておくものである。