廣瀬旭荘の漢文日記『日間瑣事備忘』の下記の条に言う。

 

嘉永二年(一八四九) 四十三歳

 

四月十五日、

  河茂、来たりて曰く、

 

  「藤禹は、近ごろ浪華雑詞、及び摂西六家詩抄を刻し、先生の詩を載す。(それがし)父子は先生の全集を刻し、諸を天下に  

  布かんと欲す。而先生は藤禹に弐せんと欲するは何ぞや」

  と。余は曰く、

  「公父子は平日、来たりて我に謀らず、而るに藤禹は我に謀る。是れ公父子の我に親しきことは、藤禹に如かず。公

  父子は、今後、須く屡ば来たりて我と謀るべし」

  と。曰く、

  諾す」

  と。

 

 

 藤禹とは、浪華の書肆、藤屋禹三郎の事である。彼は、述べられ

ているように、広瀬淡窓や旭荘詩を収めた『摂西六家詩抄』を河内

屋喜兵衛と相板で嘉永二年に刊行しており、当時、旭荘のもとに親

しく出入りしていたようである。だとすれば、近しい者に人情が移

るのは当然の事で、この辺の事情は今と変わらない。旭荘のこうし

た対応に懲りたものか、河内屋茂兵衛は、その後、旭荘のもとに頻

繁に来るようになるのであろうが、その辺の様子は、時を改めて観

ることにしよう。