旭荘の漢文日記『日間瑣事備忘』の文久三年(1863、旭荘は五十七歳)六月二十二日の条に言う。

 

 室氏(旭荘の妻の清水氏)をして按摩せしむ。二児は側らに侍す。乃ち風樹 枯魚の情を述べて、之を訓誡す。

近年、暑時、(しき)りに病む。一年は一年より(はげ)し。自から帝郷 期し難きを知り、(あらかじ)め後事を処置せんと欲す。

然れども二児は猶ほ幼く、以て意と為さず。室氏は小胆にして、甚だ身後の二字を言ふを忌む。

孝也は又た遠きに在り。

余は既に衰羸(すいるい)して、遺書を作ること能はず。唯だ之を口述せんと欲するも、而も旁らに親戚故友の、以て寡孤を託すべき者無し。

単身遠游し、且つ屡ば居処を移す。事勢は当に然るべし。然れども亦た命なるかな。

 

 清水氏は、旭荘の五番目の妻である。彼は、いかにも詩人らしく、激情家であったので、その家庭には波乱が多かった。また、彼女は神経質な性格であったので、旭荘が死後の事に言及するのを嫌がった。無理も無い事だ。

 

 側らに在った二児とは、四男仁四郎(先妻エイの子。十三歳)、五男正吉(清水氏の子。九歳)」の二人を指そう。六男の龍吉は、まだ二歳で、訓誡などはできないと考えられるから。

 

 風樹の情とは、親が亡くなった後、孝行したいと思っても二度とはできないという、悲しみや後悔を意味する言葉(『韓詩外伝』一)である。

 枯魚の情とは、「枯魚銜索(かんさく)」を言おうが、これは「魚の干物は長持ちしそうに見えるが、すぐに虫に食われてしまう、親もそのようになる恐れがあるから、元気なうちに孝行をせよ」(同上)という教訓である。

 

 この年の八月十七日に五十七歳で病没する事になる旭荘は、約二か月後の運命を予感したもののようで、自分というよりは、後に残される清水氏の運命を思いやって、そのような教訓を垂れたのであろう。だが、二人の子供は、まだ幼くて、そんな旭荘の思いやりなどは、まだ理解できない。

 

 長男の孝之助(林外)は、二十七歳になっているが、遠い豊後(大分県)の日田に在るので、そのような教訓を伝えられないのである。