三重県にあります、心形刀流(赤心会)を修行される方から
御流儀の資料を頂きました。
心の剣について、まとめられた文章であり
心形刀流もまた無想剣(つまりは心の剣の追求)であることが
理解できます。
まずは頂いた資料。
前半のお経のような文章に、心の剣が何かと書かれております。
古語なので読める人は少数です。
私も読めません。
さらに現代語訳を頂きました。
これなら読めます。
この文書の一部を、もう少しわかりやすく解説したいと思います。
兵法は心の妙徳なり。
これと
言語文字の及ぶところの者にあらず。
「妙徳とは菩薩の智慧であり、人界の知識ではありません。
だから、書籍を読んだとか、スゴイ肩書の先生の話を聞いたとか
何かの学問を修めたとかでは、到底 菩薩の智慧まで至ることはありません。」
本、勝負なし。勝つを求めず、勝つこと自然なる者なり。
これと
心休すれば自由なり。
「この部分は、かなり重要度の高い説明です。
これが心形刀流で伝えようとした心の理だと思われます。
この説明については、山本一夫チャンネルの
無想剣とは何なのか 28回目(0:20-1:10)を見ると
分かるかもしれません。
この理を理解した者が、電光石火、明鏡が出来るという事です。
電光石火、明鏡とは私が良く使う言葉「縮地」に相当します。」
表刀の剣なり。
「表とは即ち、義(信、愛、仏、華など)を指します。
その義とは、
抑止力のような力(力の正義=術、技や肉体の鍛錬で得た力)
ではなく、魂や精神などと呼ばれる対象の理解による力です。」
また電光石火、明鏡とは、心の速さを指す表現であり
他流派では縮地と呼ばれております。
つまりは
「術や技ではなく、心の形による結果」
という事になります。
頂いた資料からの推測となりますが、
何かの参考になれば幸いです。
一部分だけですが、簡単な解説をしてみました。
無想剣とは、無住心剣、無刀流、円明流、一刀流や
本件で紹介をした心形刀流も、その理を持っているという事です。
また、神無想林崎流。
つまりは居合道の流祖と呼ばれた林崎甚助公の剣ですが、
この剣も
「心のままに抜刀をした。」
と言う話をあるようです。