私も含めて、特に最初に教えられたことが

正しい価値観として囚われてしまいます。

   

ここで大切なことを書きます。

その価値観は正しいものである、

と同時に

相手の価値観も正しいことである。

このように相手も尊重する心を持つことが、

正しい武道修行者の精神です。

 

武道ではなく宗教。

仏教とキリスト教。

コレどちらが正しい宗教なのでしょうか?

 

ゴッホとピカソの絵画。

どちらが正しい絵画なのでしょうか?

(販売価格による勝敗は除く)

 

フォークソングとハードロック。

どちらが正しい音楽なのでしょうか?

 

全て個人の主観とか価値観でしか

判断が出来ません。

 

その価値観を作り出した要因は

刷り込み現象であることもまた事実です。

 

特に武道の流派で、同じ名称の流派を

亜流・傍流という表現で揶揄してしまうことは

「俺たちこそが正当な流儀で、大将は正統な流儀を受け継いだ人だ。」

この価値観を刷り込まれたからです。

  

また流儀を正しく受け取ると言った表現(伝家)は、

武家のお家制度に右習えをしただけです。

 

 

話を変えて、新興流派の話を。

 

ここで新陰流。

沢山の新陰流系の流派が存在します。

そして流儀・流派が一派一流でなければならないのであれば、

新陰流系が多数存在することに矛盾を感じます。

  

そして新陰流と言う流派そのものが

存在をしてはならないと言えるでしょう。

(伝承例:新陰流=香取+鹿島+影流)

 

伊勢守信綱公の時代(戦国時代)の人の目線では、

新陰流も“新興流派”に過ぎない

わけです。

新興流派は間違ったモノと考えるのであれば、

新陰流もまた間違った流派であると言わざるを得ません。

当然、それ以降に興た流派も、その時代を基準に考えれば

皆“新興流派”です。

 

新興流派。

令和の時代から見たら新興流派とは、

昭和/平成の頃に興たエセ流派、

と言う意識が強いのではないでしょうか?

  

では、江戸時代の新興流派が正しく

昭和の新興流派が間違いであるという

根拠はどこにあるのでしょうか?

 

これも“ある価値観”に囚われている状態です。

それは何か?

「正しい流派とは、江戸時代で停止した状態である。」

と言う価値観。

 

昭和に興た著名な新興流派の例として

極真空手があります。

極真空手は、琉球古武道(唐手・空手)と

乖離が生じています。

 

つまり

琉球古武道(唐手)と極真空手は、

同じようであるが同じではない。

という事です。

 

料理に例えるなら

本場本国のフランス料理(琉球古武道)

日本人の舌に合わせたフランス料理(極真空手)

 

ここで気を付けていただきたいことは、

どちらか一方が正しい流儀だとは言えない。

という事です。

  

ここで新興流派は正しい武道ではない、

と仮定をするならば、

なぜ極真空手は現在も継承(分流含む)されているのでしょうか?

本来の琉球古武道でなくとも、世間が受け入れたからです。

 

 

木を見て森を見ず。

こうならないように、戒める心も

武道には必要です。