雨の日曜日 | 仏光さんの心の相談室

雨の日曜日

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今日は日曜日ですが朝から雨。しょうがないので室内でローラートレーニングです。ゲストハウスでトレーニングした後は、中学生の英語寺子屋をやってから山の自宅に帰りました。自宅でも昼食後、またグストのロードバイクでローラートレーニングをして昼寝をしました。

 

日曜日の雨の日はローラー三昧です。でもぐっすり昼寝ができたので体が休まり、また来週からガンガントレーニングできると思います。ただ明日の月曜日は、昼休みにお友達の顧問弁護士とのミーティングがあるので、トレーニングはお休みです。ちょっとつまらないけれども仕事優先ですね。

 

今年の4月で私が始めた事業も15年目に入ります。オープンした日から今まで15年間、ちょっとしんどい時もあったけれども、一度も病気やけがで仕事を休んだことがありません。これはこれで本当にありがたい話です。特に最近は体もトレーニングでもっと強くなり、毎日が楽しいです。

 

ついていると思うのは、この15年間で仕事が苦になったことが一度も無かったことです。朝早くから夜遅くまで働いていても全く苦になりませんね。これも大変ありがたいことだと思うし、好きなことを仕事にできたのはとっても幸せなことです。

 

私は去年の10月から前期高齢者になりました。今まで何回かブログにも書きましたが、こんなにありがたい老後を迎えられるとは夢にも思っていませんでした。30代40代50代の時より心も体もより強くなっているので、老後という表現自体が私には合っていません。

 

でも人生ですから嫌なことは起こるし、「大丈夫かな?」と心配になりそうになることもあります。その辺りは今までの学習や実践で得た智慧が私を助けてくれています。もし仏道修行などをしてなくて、瞑想などもせずに、そしてお釈迦様が説いている色々な真理というものを知らずに暮らしていたら、結構右往左往する人生を今頃過ごしていたと思います。右往左往したくないから危険を冒さず、何もチャレンジしないつまらない人生になっていたでしょうね。

 

私は本当の仏教というのは宗教というより哲学であると思っているし、実際に私自身全く宗教的な人間では無いと思っています。宗教には何かを崇拝するという要素がその中にありますが、私には全くそういう概念が無いし、何かを崇拝したら自分が幸せになれるとも全く思っていません。強いて言うなら私は、私をつかさどっている「天(宇宙)」というものに感謝しているだけです。

 

幸せになれるのは、先人からより良く生きる智慧を学び、それを実生活で実践して自分のものとして得ることと、常に心身のトレーニングを怠らずに自分を磨くことです。「知っている」というのと「自分のものとして得る」というのには天と地の差があります。そういうことを何もせずに、何かを拝んだら幸せになれるという事は無いと思います。

 

もし拝むのであれば、自分の心の中にある仏性を拝むことですね。我々の心の中には仏性と言うものがあるのです。「仏性とは何なのか?」は、興味のある人はどうぞ調べてみてください。真の幸せというのは自分を取り巻く資産や社会的地位などの条件の中にあるのではなく、自分の心の中にあるです。

 

朝早く、凛とした冷たい空気の中、ロードバイクで狩野川の堤防を風を切って走っていると、太陽が昇るにつれて辺りが白み始め、そこに朝日に輝く雪に覆われた雄大な富士山の姿が川面に立ち込める川霧の向こうに現れると、それはもうその状況自体が私にとっては「極楽浄土」なのです。

 

自分、ロードバイク、朝の自然。この三つで私の極楽浄土が形成されるのですね。この極楽浄土には社会的地位とか権力とか土地や家を持っているとか、人からどう思われているとか、今まで自分が何をしてきたとか、全くそういうものは必要がないというか、関係が無いのです。そんなことは私にとってどうでも良いのです。

 

その瞬間瞬間の中に「自分の極楽浄土」を見いだせたら、それ以上の幸せは人間が生きていく上ではないのですね。ここで大切なのは「自分の極楽浄土」という事です。世の中一般が思っているとか、誰かに教えられたとか、書物に書いてあるとか、そういう極楽浄土ではなくて、あくまで心が限りなく平穏になる「自分」の極楽浄土なのですね。

 

自分の極楽浄土というのは自分の心の中にあるのです。これを知らずに人口の90%以上の人が一生を生きて、何だかんだ人生をやって、そして死んでいきます。そういう人は死んでから極楽浄土があると思っているのです。

 

私は死んでから自分がどうなるのかは、自分勝手な想像はできても実際のところはちゃんと死んでみないと分からないので、生きているうちに極楽浄土に居るようにしたいと常に思っているし、願っています。

 

その極楽浄土は世間一般と自分を見比べている間は絶対に現れない極楽浄土なので、自分の心の中に極楽浄土が作れるトレーニングを毎日するのですね。それは真理を学んだあとで、実生活でその真理を実践したり、自分の心と体を瞑想や有酸素運動で鍛え上げていくトレーニングです。

 

私はちょっとお金があって、世間一般と比べて自分の生活に遜色なくて、「まあこんなものでいいので自分は幸せかな」と思っているような次元とは全く違う次元の幸せの話をしているのですが、それ自体が分からない人が多いみたいです。

 

自分を取り巻く条件の中に幸せがあると思っていると、天災や戦争でそれらの条件が失われると、その瞬間に一気に不幸になります。そして自分が今持っているものが無くならないか、自分の将来に対してそれら自分の幸せを構成していると思い込んでいる条件をいつか失う時が来る不安を抱きながら毎日を暮らしていくのです。

 

私にとってはそんなものは幸せではありません。金持ちはその金を失う不安をもって一生を生きます。家や土地に価値を置いている人は、その家や土地を失う不安が皆無になることはありません。それは私の幸せではないのですね。

 

食料など生きていくのに最低限のものがあれば、幸せを感じることができる心を作ることが本当の幸せなのです。そういう意味では道場での禅の修行は良かったと思います。自分の場所は寝る時の畳一畳分しかないし、食事も一汁一菜だけです。

 

それで十分幸せを感じる自分になれたことは確かだし、今まで家や収入や資産や社会的地位の中に価値があると思っていた価値観が一変したことも確かです。その価値観の変化により本当の幸せに近づけたのですね。だからと言って禅をやればみんなそうなるとは限りませんが、私にとっては新しい経験になりました。

 

じゃあ今自分に家などの資産やお金が無いかと言うと、それらは私が生きていくのには十分過ぎるほどあると思っています。とりあえず一生懸命働いて、毎日意識的に自分の生活を質素にしてつつがなく暮らせているので、私にとっては十分過ぎるほどのものがあります。これが「足るを知る」という事なのでしょうね。

 

「小欲知足」、欲を少なくして足るを知れば、この世はただそこに朝日の中に浮かび上がる雪を頂いた富士山があるだけで極楽浄土になります。そういう幸せを生きている間に心の中で感じることができるようになって、本当に今まで生きてきて良かったと思います。

 

アメリカの上場企業で役員をしていた若いころには考えも及ばなかった幸せですが、これが本当の幸せなのでしょうね。例え明日死んでも何の文句もありません。歳をとって来て本当に良かったと思います。雨の日曜日でも、自転車で外を走れなくても私は幸せです。ありがとうございます。

 

合掌

 

仏光

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