ごめんなさい | 仏光さんの心の相談室

ごめんなさい

私の亡くなった義父は現役の頃、検察庁の検事をしていましたが、その義父が言っていた言葉で忘れられないものがあります。それは「世の中にはごめんなさいと一言言えば回避できるトラブルがたくさんある」というものです。今の世の中は責任を逃れる、誰かに責任を負わせる、誰に責任があるのか探し回る、責任のなすりあいをするといったことがほぼ当たり前に行われています。だから多くの人は自分に非がある時でも何とか自分の責任を逃れようとするのですね。そこで多くのトラブルが発生するのです。場合によっては義父が働いていた検察のお世話になることもあるのですね。


明らかに自分に非がある場合とか、自分も悪かったなと思う時に素直に「ごめんなさい」と言える人がどれだけいるでしょうか。多くの場合、自分の責任を逃れようと色々な言い訳をしたり、相手も悪いと言い返したり、そういうところから「ごめんなさい」の一言で回避できる問題をわざわざ自ら作っている場合があります。大体言い訳など相手には「言い訳だな」と分かっています。それでも一生懸命見え透いた言い訳したりするのですね。


その時はそれで済んでも、自分が何をしているかと言うと、その安い言い訳で自分の人格を相手に安く売っているのです。自分は「うまく言い逃れた」と思っていても相手は「こんな程度の人間か」と思っています。そういう人間に将来相手はまともな対応をしないでしょう。それがつまらない言い訳で自分の人格を売るという事です。


最近、明らかに私に非があったなと思う事が立て続けに起こりました。自分が悪かったなと思うので、すぐに誠意をもって「ごめんなさい」と謝りました。相手がそれにどのように対応するかは相手の問題です。私は自分が悪いなと思えばすぐに「ごめんなさい」と謝ります。私は誠意は伝わるものだと思っています。もちろんみんなに伝わるわけではありませんが、やはり自分が悪かったら誠意を持って謝ることが第一だと思いますね。


もし喧嘩をしていてお互い「ごめんね」と謝れば喧嘩は終了するのです。中には謝っても許さないという人間も居るでしょう。こちらが誠意をこめて謝ってもそういう人間はやっぱりそういう人間なのです。だからどうこうという訳ではありませんが、そういう時はしょうがないのですね。相手がどうであれ自分としては誠意を持って謝るしかないのですから。


私はまだ日本はそういう点で良い国だなと思っています。世界では文化の違いから誠意が伝わらない国もありますが、多くの場合正々堂々正直に謝れば相手も分かってくれます。そして「ああこの人は誠意があるな」と思ってくれる場合が思っているより多いですね。誠意を持って謝っても許してくれない場合はじっと耐えるしかありませんね。でも朝が来ない夜は無いので、その時は許してもらえなかっても正々堂々誠意を持って謝った自分の人格は守れます。


大体相手が謝ったら許してくれると期待しない事ですね。それは誠意を持って謝っていることにはなりません。許してくれると期待していると「こっちが頭を下げているのにこの野郎」と思う事になります。相手がどうであれ何であれ、結果がどうであれ何であれ、自分に非があれば謝るのです。それが自分の人格なのですね。姑息な言い訳や、相手への反撃など小さな人間がすることです。もちろん色々な観点から客観的に見て、自分に非が無ければ謝る必要などありませんし、むやみやたらとごめんなさいを言う必要もないと思います。せっかく人生を生きているのならできるだけ大きな心の持ち主になりたいものですね。


私の場合、一つは謝って大変良い結果に終わりました。もう一つは謝って結果はどうなるか分かりません。相手次第です。私にできることは誠意をもって「ごめんなさい」と言うだけです。こういうことは時間が解決してくれますから、結果はどうであれ相手を思いながらその時自分にできることは精一杯して置くことだと私は思います。謝ると責任が生じますが「それがどうした」です。本当に自分に非があれば責任を取れば良いのですね。私はとっても良い教訓を亡くなった義父から学んだと思いますよ。「ありがとう」と同じくらい「ごめんなさい」は大切なのです。ありがとうございます。


合掌


仏光

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