情けは人の為ならず | 仏光さんの心の相談室

情けは人の為ならず

私は私の後半生を人様のお役にたてるような生き方にしたいと思って自分なりに毎日試行錯誤しています。どうしても人様のお役に立とうとすると無意識にその見返りを期待している自分が居るのですね。それはお金などの物質的な見返りではなく、喜んでもらいたいという見返りです。


でも、この物質優先の世の中では素直に喜んでもらえる場合もありますが、「何か裏があるのではないか?」「変な宗教に勧誘されるのではないか?」と疑われる場合もあります。まあ全くそのようなことはないのですが、その人はそう思うのですね。そもそも私が無意識にでも人に喜んで貰おうという見返りを期待しているのが私の心の境涯の低いところです。



また一生懸命やっていてもなかなか成果が出ない場合もあります。ちょっと良くなってきたかなと思うとまた元の状態に戻ったり、そのようなことを繰り返し繰り返ししているのですね。まるで海の水をコップでかき出しているような感覚にとらわれることもあります。いつまでも果てしなく、そして何の成果も得ることもなくこの努力が続くと思うのですね。


でもそういう時にその努力をやめてしまう事は簡単ですが、成果が出るように色々工夫しながら続けるのですね。成果のない日々が続く時は自棄を起こしそうになる事もあります。でもそれをこらえて続けるのですね。こういう行為の連続が私を辛抱強くしてくれるし、成果の有無より自分が学び鍛えられて成長していると感じるのです。


世の中の多くの人はすぐに成果が出ることを期待します。ちょっと期待通りにならないとやめてしまったり悪態をついたりします。でも私は本物はなかなかすぐには得られないものだと思うのですね。途方もない失敗の繰り返しの中にただ一つの本物の成功があると思うのです。ちょっとうまくいかないと嫌になる。時間や努力が必要なことは嫌ではなかなか本物の成果を手にすることはないと思います。だから途方もない失敗の繰り返しを「ああでもない。こうでもない。」とするのですね。


私の人生など大小織り交ぜたら失敗の連続でした。家や仕事など形としては世の中的に問題が無いような人生に見られるかも知れませんが、いざ自分の心の境涯となるとまあ大したことはないのですね。取りあえず、名誉、肩書、資産、収入などで自分自身の評価を測るような愚かなことはしなくなりましたが、心の境涯となるとまだまだですね。


しかもこれは坐禅をすれば良いという単純なものではありません。本当に困っている人の助けになるというのは実践の連続です。坐禅をして観念の中で「衆生済度、フニャ~」と言っているのは簡単ですが、いざのた打ち回る人を目の前にして自分自身に「さあ、お前どうするのだ?」という現実に仕事として、また自分の生き方として対応するのは本当に大変です。


本当に困っている人は坐禅などしている余裕はないのです。もちろん坐禅は良いものだけれども、自分は綺麗に掃除された禅堂の安全地帯に居て坐禅をしながら観念の中で「衆生無辺請願度、生きとし生けるものを救えますように」などと言っていても本人の自己満足の世界で、本当に辛い、汚い、臭い、どろどろの世界を目の当たりにして対応できるかというと、多分「縁無き衆生は度し難い」などと言いつつ目を背けると思うのです。だからこれを実際に毎日やるのは自分の心の境涯を試すことになりますね。


「情けは人の為ならず」という言葉があります。この言葉はよく「情けをかけると人の為にならない」と誤解されています。まあ本来の意味は「人に情けをかけるのは引いては自分の為なのだよ」というものです。私は最近この言葉の本来の意味を実感できるようになってきたかなと思います。


人様の為と思ってしていることは結果として自分の為になっています。「自分が、自分が…」とやっていると自分が成長することはあまりありませんが、人様の事を想い実践していくと、色々な学びがあり、結局は自分の為になります。どうせ私はあと生きても25年か30年ですから、こういう事をしながら自分の心の境涯をちょっとはマシなものにしていきたいと思います。これは自分との勝負ですね。「情けは人の為ならず」です。


合掌


仏光

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