身近な人の死 | 仏光さんの心の相談室

身近な人の死

昨日、近所に住む私が懇意にしていた歌の先生が90歳で亡くなりました。芸術家肌で歌とかオペラが大好きな先生でした。太平洋戦争の時は海軍少尉をしておられて、それでもピアノを弾いたり、戦時中も歌を忘れることの無かった先生です。私とは気が合ってよく話をしました。最後まで歌が大好きで、意識が無くなってからも病院のスタッフが音楽を病室にかけてくれていました。そうすると意識は無いはずなのに、手が指揮棒を振るように動いていたらしいです。目は開けられなかったけれども、耳は聞こえていたようですね。本当に最後まで自分の好きなことを通した先生でした。ご冥福を祈ります。

この歳になると、多くの死と出会わなければなりません。今年は愛犬の「道三」と私の父が3月に亡くなり、懇意にしていた歌の先生が昨日亡くなり、義理の父もがんで余命3ヶ月くらいと病院で言われています。また、親戚にも最近がんが発覚して先行きが分からない人も居ます。このように立て続けに死と向き合わなければならない時期というものがあるのですね。「人は必ず死ぬのだな」ということを実感させられます。

どうせいつかは私にも寿命が来ます。私は昨日亡くなった歌の先生のように、最後まで好きなことをしていたいなと思います。色々な人の死に出会うたびに、「晩年にはその人の人生が全て凝縮されて出てくるものだな」と実感します。その人の人生の積み重ねが全て現れてくるのですね。だから「最後はこうしよう。ああしよう。」といくら頭で考えていても、考えている通りにはならずに、今までの自分の生き様が全部出てくるのです。だからより良い死を迎えるには、今の毎日の積み重ねが大切なのですね。

まあこれは老衰で死ぬ場合ですが、人生は災害や事故などでいつゲームセットになるかは分かりませんので、毎日の生き方が大事だと私は自分に言い聞かせています。私はまだまだ禅の修業に納得ができていないので、明日死ぬとなればそれが心残りになるとは思います。でも禅の修業などいつまでやっても納得できるところがあるとは思わないので、いつ死んでもこれだけが心残りになるのでしょうね。「自分は一生を通じて、ここまでの心の境涯にしか達することができなかったな」と思うのでしょう。でもこれだけは「まっ、良いか」で終わろうと思っています。

そのように自分が死ぬことを思う時、私は今生きているのが本当に「ありがたいな」と感じます。若い頃はそういうことは無かったのですが、この歳になって身近な人の死と接する中で、死ぬことより生きていることのありがたさみたいなものを感じるのですね。今、生きてしている全てのことが「死ねばもうできないのだ」と思うと今していることが愛おしく思えます。ご飯を食べたり、仕事をしたり、坐禅をしたり、人と話したりと普通に毎日していることが本当は大切なんだと思うのですね。生きていると辛いこともありますが、生きているからこそ辛さもあり、喜びもあるのです。それが人生なのだと思って、毎日できるだけ今生きてできていることに感謝しながら生きていきたいと思います。

合掌

仏光

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