人生と蓮の花 | 仏光さんの心の相談室

人生と蓮の花

一回しか無い人生をどう生きるか?は、その人それぞれの問題ですが、私は自分の人生の時間を無駄にしたく無いという思いがあります。私の前半生では地位とか肩書きとか名誉とか富とか権限などが人間の価値だと思っていましたので、それを追い求めている人生でした。ある意味社会的には外資の社長になることによってそれらを手に入れました。周りの人も一目置くようになったのですが、本人はちっとも幸せではありませんでした。それよりどんどんとんでもない人間になって行ったような気がします。人が頭を下げるのは私の人格ではなく、私の肩書きに頭を下げているのです。それを人間の価値と思っていたのだから、本当にその頃の私は阿呆でしたね。


まあこんなどうしようも無い人間が、社長をクビになって、苦しんで、そして禅と出会ったのです。そこからが本当の意味の私の人生が始まったような気がします。もちろん坐禅をしたからすぐに自分が変わったわけではありませんが、徐々に、そして確実に変わっていったのですね。昔の私に比べれば人間として相当変わりました。しかしそれは過去の自分と今の自分を比べているだけであって、客観的に見て自分はどうか?と言われると「まだまだです。」としか言いようが無いレベルですね。


昔、社長をやっていた頃は「自分は大したものだ」と思っていましたが、今は「まだまだです」と思えるようになっただけでも進歩かも知れません。これで私の後半生が始まったのです。仕事という意味では今のところ食べるのに困るということはありません。これは本当にありがたいことですね。仕事があるというのはありがたいことです。特に自分で事業をしている訳ですから、仕事がなければすぐに困窮してしまいます。


それが何とか今のところつつがなく進展していってくれているので心から感謝します。それと自分でやっているので定年退職というものがありません。自分が健康な限りは好きな仕事を続けられるので幸せです。いくら仕事がうまく行っても前半生のような間違いは犯したくないので、全く違った生き方になっています。毎日こつこつ誠実に、そして謙虚にが自分に言い聞かせている間違いの無い生き方です。


最近私は、「人は最後にどのように死ぬのか?」ということは余り問題ではないと思っています。そんな事は人間には分からないのです。お釈迦様も最後は布教をして回っていたインドのある村で自分の弟子の家で食べた豚肉料理にあたって体調を崩し亡くなりました。仏教では精進料理しか食べないくらいに思われていますが、そんな事は後の坊主が作ったことで、お釈迦様はその時代のインドで堂々と肉も食べていたのです。


先日ダライ・ラマの特集をヒストリーチャンネルでやっていましたが、ダライ・ラマも子供のときは修行の合間に自分の家に帰って、お父さんやお母さんと一緒に豚肉料理を食べるのが大好きだったと言っています。「ちょっとルール違反だったけれどもね」とも言っていました。そういう素直で正直なところがさすがダライ・ラマですね。


話はそれましたが、人間は「死ぬ時がどうであるか?」ではなく、「死ぬまでにどう生きるか?」ということが重要なのですね。生きている間にはもちろん人間ですから間違いを犯します。今生きているこの一瞬一瞬をどのようにして生きているの?というのが最重要課題です。どの様に生きたとしても人間ですから何時かは死にます。この世から消滅するのですね。


だから好き勝手に生きれば良いと思う人も居るだろうし、人として自分が納得する最高の生き方をしたいと思う人も居るのです。私はせっかく生きているのだから、無駄にはしたくないと思いました。死に様がどうであれ何であれ、その人がどのように与えられた時間を生きたのか?が大切なのです。やっぱり人間生きている間だけが花なのですね。できれば大きく綺麗な蓮(はす)の花を私の人生で咲かせたいと願っています。


合掌


仏光

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