令和8年8月3日(月)
次なる思い込みは「多文化共生」である。AIによるとこの言葉は1990年代に、日本の市民運動家や自治体の現場から、「ボトムアップ」的に生まれて来たものであるそうだ。そして2006年に総務省の正式な政策指針となって、定着をしたそうである。私は欧米産の思想やそれを翻訳する学者様の造語かと思っていたが、どうもそうではない様である。
だからであろうか、事実、欧米の「多文化主義」と日本の「多文化共生」には隔絶した違いがある。欧米の「多文化主義」は例えばイスラム教の土葬とかラマダンなどの風習を、そのままイスラムの文化として認めるものである。これに対して日本の「多文化共生」は、日本の文化を妨げないという大枠を嵌めて、その範囲内で彼らの異なった文化を活動させるというものである。だから日本の自治体は「多文化共生」を掲げても、イスラム教の土葬を認めない。それあってイスラム教徒などは日本の「共生」は偽物だとして、自分たちの文化である土葬をさせるように強硬に主張する、それを果たさせてこそ本物の「共生」が日本に実現すると、考えるのだ。
欧米は例えばイスラムの文化をそのまま受け入れる。日本の場合は日本的な味付けをして受け入れると、言っても良い。この違いはどうして生じるかというと、欧米は文化の違う民族の共生など出来ないと長年の経験から知っているのに、日本にはその知識はせいぜい在日の反日的振舞に戸惑う体験をしているくらいの、体験した歴史の厚みの違いから来ている。日本は良く他国の文化を日本的に取り入れてきたと評される。日本は思想的にほぼ均一な国で、プロテスタントとカトリックの絶滅戦争的な争いは、どいう訳かなかったのである。
欧米は長年の経験から他文化は共生など出来ないと、知っている。それともう一つの知識が彼らにはある。それはキリスト教の精神から来るものだが、人類は神の前では平等であり、その素晴らしい教えを広めるのが、自分たちの使命であるとの思想である。だからキリスト教の宣教師は全世界に布教をするのである。反対に日本人が神道を広める動きをしているとか、聞いたことがない。この神の前では平等だとの意識が、可哀そうな移民は受け入れるべきだとの、感情になるのである。
文化は共生できない、移民は受け入れるべきだ、この二つのテーゼはそう簡単に欧米から無くならないと思う。だから欧米の多文化主義とは、例えばイスラムの文化を持った人間達が、どこか一か所に固まって住むという事になる。すると、その内、その地域はイスラム法が支配する、国家の中の別国家になるような、気がする。神の前では平等なのだから移民を受け入れるべきだとの考えは、移民が少数なうちは良いが、今ヨーロッパからのニュースでは色々な軋轢が生じていると聞く。恐らくあと30年くらいで、ヨーロッパは移民受け入れ政策を漫然と続けて従来の国家アイデンティティーを失う国と、移民を拒否して頑なに国を守る国家とに、二極化するような気がする。
残念ながら移民に関しては、欧米の認識の方が、正しいと思う。日本の「多文化共生」を適用して入ってくる移民は、交わらない文化を持っている人達だと、よく理解する必要がある。今目の前にある一番良い例は、韓国人の振舞である。彼らは千年たっても恨みは忘れないと、大統領が言う国の民族である。何かにつけて自国を日本と比較したがり、日本は終わってますねと述べて満足する、民族である。むしろ在日の方が日本人化していて付き合い易いとさえ言える。すなわち韓国文化をそのまま出せば、日本文化とは交わらないのである。「多文化共生」とは日本文化を優勢にしておいて、その中での外国人へのお恵み的な事をするものだと、本質を理解しなければならない。美しい響きに酔っていると、思わぬしっぺ返しを食らうと、理解すべきだ。