さてさて…
『光る君へ』の直近二回の放送では
中宮彰子(ちょうぐうしょうし)が遂に待望の皇子を出産
父親である道長は、念願の外戚の座に大きく踏み出すことになりました
それまでに至るまで、道長は娘と一条帝(いちじょうてい)との関係が好転すべく、あらゆる手段に訴えました
死してなお、一条の心を捕らえて離さない皇后定子(こうごうていし)の存在をかき消すべく…
定子讃美を目的とした、ききょうこと清少納言が書いた『枕草子』(まくらのそうし)を凌駕する物語の執筆を考えた道長は…
最後の切札として、まひろこと紫式部を彰子の女房として登用教育係と共に、物語執筆の特命を与えたのです
『光る君』劇中では、まひとに背中を押された彰子が…
『お上、お慕いしております』、涙の告白に心を動かされた一条が…
遂に彼女と結ばれる、あたかも、この直前に道長が決行した、御岳詣(みたけもうで)のご利益があった
云々の展開となっていましが…
史実では、道長が寛弘四年(1007)八月に吉野金峯山詣で(ぎんぶせんもうで)を行なう以前…
既に彰子には、妊娠の兆しが生じていたのです
即ち、当時の后妃の第一子出産平均年齢である十九歳~二十歳に到達した、彰子と一条との男女の関係が始まっていた訳で…
それが可能になったことで、いよいよ彰子懐妊の機運が高まったと言えます
藤壺(ふじつぼ)に仕える女房筋から、秘かにそれを知らされた道長は、娘の懐妊を心待ちにしていたのですが…
暗に相違して、一向に彰子に懐妊の兆しは見られなかったのです
➀ここまで考えられる限り、やれることは全てやった
②最善の人事を尽くしても駄目ならば、後は天命に賭ける以外にはない
③こうなれば、もはや神頼みしかない
④よし御岳詣に行くぞ
こうして、道長の生涯で最初で最後となる御岳詣が決行されたのですが、その目的は…
政権掌握以来、度重なる病に苦しめられる、自身の長寿と無料息災を祈願する要素も会った筈ですが…
その最大の宿願は、彰子の懐妊と皇子出産以外の何物でもなかったのです
かくして、並々ならぬ覚悟で御岳詣に臨み、本懐を遂げた道長の想いが通じたのか
その年の末に彰子は懐妊年明けを挟んだ五か月のかん口令を経て、安定期を迎えた春頃に…
彰子の懐妊が公に披露されたのです
但し、本番は寧ろここからであり、出産準備のため内裏を退出して、里第(りだい)である土御門殿(つちみかどどの)に戻ってから出産までの九月までが、産婦である彰子は勿論、父道長や母倫子(りんし)にとっても、まさしく人生の正念場とでもいえる局面であったのです
今後、後宮に入内する娘達のためのお産マニュアルとして、女性目線で記された『紫式部日記』(むらさきしきぶにっき)には
彰子出産の数ヵ月前から当日の模様が、克明且つ詳細に記述されています
その中でも、難産に苦しむ彰子に取り憑いた物の怪が、騒ぎ喚く様子については、『光る君へ』でも生々しく描かれていましたが
それはまさに、修羅場と言っても過言ではありませんでした
彰子を苦しめている物の怪を彼女から引き離すため、修験者が祈祷を行ない、傍らに控えている憑坐(よりまし)の女性に物の怪を移すのですが…
体を乗っ取られた憑巫達は鬼のような形相となり、道長や彰子に対する恨み言を声高に喚き罵っていたのです
この時道長は、修験者・憑巫とその介添えをする女房の三人を一組と定め、それを十数組も編成したとされており…
道長は彰子が出産時に物の怪に取り憑かれことを恐れ、物の怪を調伏すべく万全な体制を敷いていたのです
但し、そうした状況を想定しながらも、彰子に取り憑いた物の怪の数は複数で尚且つ、相当な猛霊であったのです
この時代は、無念の想いを抱いて亡くなった人々が怨霊となって、恨みを抱く相手の関係者に取り憑いて死に至らしめることが
真面目に信じられていました
多くの幸運に恵まれて権力者となった道長もまた、好む好まぬを問わず、沢山の競争者から恨みを買っており、当の道長自身も
それを十分認識していたのです
では、道長の出世を憎悪、更には政争に敗れて、失意や無念のうちに世を去った人たちは果たして誰だったのか
ここまでお話すれば、皆様もお分かりだと思いますが、下記の面々であったと思われます
➀道長以前に権力の座にあった同母兄の道隆(みちたか)や、その嫡妻(道長には義姉)の高階貴子(たかしなのきし)
②道隆死後、関白になったものの、就任から僅か七日で薨去した、同母兄道兼(みちかね)
③道隆・貴子夫妻の長女で、第三子の出産直後に産褥死した皇后定子(こうどうていし)
上記の人々は、冥界にて道長家の隆盛を憎々しげに眺めていた筈であり、彰子が皇子を産むか産まないかの局面を迎えた際…
彼等はそれを阻むべく、物の怪となって彰子に襲い掛かることは十分想定された訳で
道長はそうした事態が起きることを恐れていたのですが…
事実、彼が憂慮していた事態が起きてしまったのです
(実際に彼等が物の怪となって彰子出産の場に現れたかどうかは不明ですが、少なくとも道長周辺や関係者はそう思っていた
筈です)
そして、物の怪と化した人々と並んで道長が恐れていたのが…
従二位准大臣(じゅにいじゅんだいじん)として、完全なる復権を目前にしていた伊周(これちか)だったのです
続きをお楽しみに