さてさて…
長徳(ちょうほう)三年(1001)十月九日
東三条院詮子(ひがしさんじょういんせんし)の四十算賀(しじゅうさんが)に向けて…
宴の主催者である左大臣道長(さだいじんみちなが)は、その準備に余念がありませんでした
特にメインの催しとなる雅楽舞(がらくまい)については、幾つかのプログラムを用意しており
➀万歳楽(まんざいらく)→②蘇合香(そこうこう)→③陵王(りょうおう)→④納蘇利(なそり)
上記の順番で舞が披露されることになっていました
前者の➀と②は成人男子による舞で、それぞれ四人の公達(きんだち)、総勢八名にて舞うことになっていました
それぞれの舞人を紹介致しますと…
➀万歳楽
〇右兵衛督源憲定(うひょうえのかみ みなもとののりさだ)
〇左近衛中将源経房(さこんえちゅうじょう みなもとのつねふさ)
〇左近衛中将源頼定(さこんえちゅうじょう みなもとのよりさだ)
〇右近衛中将藤原実成(うちゅうじょう みなもとのさねなり)
②蘇合香
〇左近衛中将藤原頼親(さちゅうじょう みなもとのよりちか)
〇右近衛中将藤原成房(うこんえちゅうじょう ふじわらのなりふさ)
〇左近衛少将藤原経通(さこんえしょうしょう ふじわらのつねみち)
〇右近衛少将源雅通(うこんえしょうしょう みなもとのまさみち)
上記の錚々たる面々でした
先ず、➀の顔触れについて簡単に紹介しますと、憲定と頼定は村上帝(むらかみてい)の第四皇子為平親王(ためひらしんのう)の
息子達で、彼等は帝の孫という、大変高貴な血筋の貴公子でした
因みに彼等の姉妹が、花山帝(かざんてい)の女御(にょうご)で、後に小野宮実資(おののみやさねすけ)の正室になった
琬子女王(えんしじょう)で、三人は、源高明(みなもとの たかあきら)の娘を母とする同母の兄弟姉妹でした
更に付言するならば、三人の生母である高明娘の同母兄弟が、四納言(しなごん)の一人である源俊賢(みなもとのとしかた)
同じく異母姉妹が、道長別妻の源明子(みなもとのめいし)ということで…
村上源氏(むらかみ源氏)と醍醐源氏(だいごげんじ)、更には小野宮流(おののみやりゅう)をも加えた、華麗なる婚姻関係が
ここからも窺われますね
➀の今一人の舞人である実成は、内大臣公季(ないだいじんきんすえ)の嫡男で、この時、蔵人頭(くろうどのとう)の大任を担って
いました
内大臣の跡取りとして父は勿論、周囲からも期待されていた実成の同母姉は、一条帝(いちじょうてい)の女御義子(にょうごぎし)であり、彼等の生母は、醍醐帝(だいごてい)皇子の有明親王(ありあきらしんのう)の娘であり、姉弟は帝の曽孫という高貴な血統に属していました
続いて、②の舞人に移りますが、藤原頼親は、かって栄華を極めた中関白道隆(なかのかんぱくみちたか)の次男で
伊周(これちか)の異母兄に当たります
但し、生母が道隆正妻の高階貴子(たかしなのきし)ではなかった故、庶子として扱われ、伊周・隆家(たかいえ)兄弟達と比べ
官途(かんと)では大きく差を付けられていました
父道隆薨御の直前に、漸く近衛次将(このえじしょう)に昇進したのですが、実家の没落等もあり…
結局、任中将十五年を数えながらも、遂に公卿昇進が出来なかったという不遇な官歴の持ち主でした
藤原成房も、頼親同様に不遇を託っていた人物で、彼の父は、花山帝の外叔父として羽振りを利かせていた義懐(よしちか)で
成房はその三男でした
因みに、義懐の同母兄の義孝(よしたか)の子が、四納言の一人である行成(ゆきなり)で、成房と彼は従兄弟同士の関係でした
行成の日記『権記』(ごんき)には、成房との交流の場面が記されているのですが、寛和の変(かんなのへん)で父が出家したことで後見を失った成房も、官途に恵まれず、しばしば出家を願っていたみたいで…
その度に行成の懸命な説得を受け、思い留まることを繰り返していました
しかしながら、詮子の四十算賀にて、舞を披露した四ヶ月後
出家の素懐を遂げるに至るのです
藤原経通は、小野宮実資の同母兄である参議懐平(さんぎかねひら)の嫡男で、実資の甥に当たります
懐平・実資兄弟の父は、小野宮流の祖である実頼(さねより)の三男斉敏(ただとし)でしたが、参議在任中に亡くなってしまい
実頼は祖父の養子となり、その後見を受けて官途の階段を駆け上がって行きました
小野宮流の後継者となった弟に比べ、兄の懐平の昇進はかなり遅れてしまい
詮子四十算賀の時、既に権大納言となっていた実資に対して、懐平は漸く参議昇進を果たす状況でした
官位において格差が生じていた兄弟ですが、その関係は終始良好であり、懐平は次男資平(すけひら)や資頼(すけより)等の息子達を実資の養子としており、子供達の将来の昇進が有利になる様に腐心しています
弟達と異なり、経通は懐平嫡男として、同家後継者の地位を歩んでいたのですが…
最終的には、父と同じく権中納言(ごんちゅうなごん)に昇進を果しています
最後の源雅通(みなもとのまさみち)ですが、彼の父親は、宇多源氏(うだげんじ)の左大臣雅信(さだいじんまさのぶ)息子の
時通(ときみち)で
彼の生母は、雅信正妻の穆子(ぼくし)、則ち道長嫡妻である倫子(りんし)の同母弟に当たります
雅信の嫡歳腹の男子故、土御門左大臣家の跡取りとして、期待されていた時通でしたが、弱年で突如出家を遂げてしまい
父母は悲嘆に暮れたとされています
父の後見を失った雅通ですが、幸いにも、義兄である道長夫妻の後見を受けることにより、武官コースを中心に官歴を積み重ねていました
近衛次将を務める傍ら、
➀一条帝の五位蔵人(ごいくろうど)
②一条第二皇子の敦成親王家別当(あつひらしんのうけべっとう)
③道長の次女で三条帝中宮(さんじょうていちゅうぐう)となった妍子(けんし)の中宮亮(ちゅうぐうのすけ)
を務める等、伯母倫子縁者の家政機関職員の仕事を歴任する等、道長縁者として優遇され、活躍していますね
以上が、万歳楽と蘇合香の舞人を務めた、八人の紹介でしたが
道長から見れば、彼等は…
この後に相次いで舞を披露する、息子田鶴(田鶴)と巌(いわ)の引き立て役に過ぎなかったのです
次回をお楽しみに