さてさて…
東三条院詮子(ひがしさんじょういんせんし)の四十賀(しじゅうが)のお話の続き
云うまでも無く、祝賀儀式の公式な目的は、国母である彼女の宝算(ほうさん・長寿)と更なる健勝を願うことであったのですが
その隠された真の目的とは
件の儀式が、道長(さだいじんみちなが)の本邸宅である、土御門殿(つちみかどどの)で開催されたことがヒントになると
思われます
女院名の由緒である東三条殿(ひがしさんじょうどの)が前年末に焼亡していることもあったのですが、国母に関する慶事である
以上
それは公式行事に相当する訳で、従って、政治や儀式の場である内裏で催されても不思議はなかったと云えます
但し、その内裏自体も、東三条殿焼亡の少し前に焼け落ちてしまっており、当時は一条院(いちじょういん)を仮の内裏として
政務等が運営されていました
因みに、一条院の伝領は…
➀道長父兼家(かねいえ)の父である師輔(もろすけ)→②師輔嫡男伊尹(これまさ)→③師輔男子為光(ためみつ)
上記の経緯で所有者が変遷しており、為光(伊尹異母弟)が伊尹娘の婿になった時に、異母兄から一条院を譲られていました
そして、この一条院こそが…
➀中関白家(なかのかんぱくけ)の没落
②道長政権の確立
上記の事態をもたらした、長徳の変(ちょうとくのへん)勃発の舞台であったのです
さて、既に忘れている方もおられるかとも思われますが
為光の息子が、『光る君へ』で金田哲さんが演じている斉信(ただのぶ)で、彼の異母姉妹(生母は共に伊尹娘)が事件の原因に
なったのですが…
為光死後、一条院は三女(三の君)が相続していたのです
政変後まもなく、経済的な事情若しくは騒動の舞台となったことが憚られたのか
三の君は八千石(米)と引き換えに一条院を手放したのです
一条院を購入したのが、諸国の受領(ずりょう)を歴任していた佐伯公行(さえきのきんゆき)という人物だったのですが
彼の妻は、高階成忠(たかしなのなりただ)の娘光子(こうし)で、かの中関白道隆(なかのかんぱくみちたか)の正妻であった
貴子(きし)の妹でもあったのです
長徳の変で、中関白家が没落 同家の外戚で羽振りが良かった高階氏面々も、その多くが事件に連座する中で…
成忠婿であった公行は国母詮子への接近を意図
購入した一条院を詮子に献上したのです
因みに長徳四年(998)の除目(じもく)の際、公行は詮子の口添えで播磨介(はりまのすけ)となっており
件の一条院献上の返礼と推察されます
こうした経緯で、一条院は詮子の所有となったのですが、翌年の長保元年(999)六月十四日に内裏が焼亡
(一条朝になって初めての内裏焼失)
詮子の勧めもあったのか、内裏再建の間、一条院が里内裏(仮の内裏)となったのです
焼亡の翌年二年(1000)、内裏は再建され、十一月十一日に一条帝(いちじょうてい)は還御(かんぎょ)したのですが…
還御から僅か一年(長保三年十一月十三日)で、再び新造内裏が焼亡一条は再び一条院に遷御(せんぎょ)する仕儀となったのです
尚、再度の内裏再建は、二年度の長保五年(1003)に完了 同年三月四日に一条は還御したのですが…
何と、二年後の寛弘(かんこう)二年(1005)十一月十五日に、またしても焼亡
一条や中宮彰子(ちゅぐうしょうし)は、道長の邸宅である東三条院殿に暫時滞在の後、再度一条院に遷御したのです
同年中には、内裏は三度再建されたのですが、一条は還御したのかは不明で(還御したとも)、そのまま一条院を内裏にしていたのです
ところで、一条は寛弘八年(1011)六月二十二日、一条院で崩御するのですが、彼の謚号(しごう)が一条となった背景には…
母詮子から提供された一条院を里内裏に滞在する期間が長かったこともあると思われます
尚、参考ですが…
帝は生前、帝(みかど)、今上(きんじょう)、お上(おかみ)、主上(しゅじょう)と呼ばれていて、崩御後に公卿定(くぎょうさだめ)等により謚号が決定されるのが常であったのですが
その帝が生前、里内裏(さとだいり)として住んでいた御所の名前が採られることが多かったみたいです
参考までに一条以外の例を列挙してみますと
➀一条の父である円融帝(えんゆうてい)は、御願寺(ごがんじ)として円融寺(えんゆうじ)を建立
後にこの寺を院御所として居住したため、円融が謚号と定められた
②一条の従兄弟である花山(かざん)も、出家後の御所であった花山院(かざんいん)を謚号としています
③一条の伯父で花山や東宮居貞(とうぐういやさだ)の父である冷泉帝(れいぜいてい)も、院御所の冷泉院(れいぜいいん)を謚号
上記の通りですが、後代の帝の謚号も住んでいた御所の名前から採用されるケースが、結構見受けられますね
少し、お話が逸れてしまいましたが…
一条院が仮の内裏であり、尚且つ本来の内裏が再建中という事情があったならば…
一条院で詮子の四十賀の宴を開催しても問題なかったと思われるのですが
前述の通り、実際の四十賀の舞台は、道長の土御門殿となったのです
それは、道長自身の強い要望と政治的な意図に拠るものであったのです
続きは次回に致します