長徳の変(その後日談について) | タケ海舟の歴史事件帳

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さてさて…

 

『光る君へ』前回放送ではガーン

 

太宰府(だざいふ)に送還されていた伊周(これちか)が、いつの間にか戻って来ていましたね注意

 

これより前には、出雲権守(いづもごんのかみ)に左遷されていた、弟隆家(たかいえ)帰京を果しており

 

あれ程、大騒ぎとなっていた長徳の変(ちょうとくのへん)は…

 

果たして何だったの?と思われた方も多かったでしょうね秘密

 

実際、長徳(ちょうとく)二年(966)五月一日、左遷の命令に従わない、伊周・隆家が立て籠もっていた中宮定子(ちゅうぐうていし)二条北宮(にじょうきたみや)に、検非違使(けびいし)が突入ピリピリ

 

➀観念した隆家は投降うずまき

 

②里第(りだい)を蹂躙されるという屈辱を受けた定子は、衝動的に出家もやもや

 

③強制捜査の情報を入手していたのか?伊周は行方をくらますあせる

 

上記の顛末となったのですが、逃走した伊周は、都郊外の愛宕山(あたごやま)に潜伏する等していたのですが…

 

逃亡するのにも疲れたのか、まもなく二条北宮に出家姿で舞い戻って来ましたあせる

 

(因みに、後に出家は擬態であったことがバレてしまいますが…時計)

 

かくして、伊周も左遷先に赴くこととなったのですがあせる

 

ここから… 更にすったもんだが続いたのですスター

 

先に投降して、左遷地に向けて出発した隆家ですが、都郊外にまで達した時点で、胸病(きょうびょう)を理由に…

 

処分執行の責任者であった、検非違使別当(けびいしべっとう)小野宮実資(おののみやさねすけ)に対して♀

 

療養のため、暫し都近郊に留まることを願い出たのです下三角

 

隆家の嘆願を聞いた実資は、『必ず希望に沿う様に取り計らう!と約束したばかりかメモ

 

隆家の罪が軽減されるべく東三条院詮子(ひがしさんじょういんせんし)を通じての一条帝への宥免にも、一役買っていますNEW

 

『小右記』(しょうゆうき)では、中関白家(なかのかんぱくけ)に対して、辛辣な言葉を書き連ねていた実資ですが…

 

その多くは、彼等の父道隆(みちたか)や、兄の伊周に向けられたもので、弟である隆家への批判をあまり記してはいませんNEW

 

意外といえば意外なのですが、既に内大臣にまで昇進を果し廟堂での公的活動の実績を積んでいた伊周に比べてスター

 

隆家は、父道隆が亡くなる直前に、権中納言(ごんちゅうなごん)に任命されており、公卿としては駆け出しの段階であったのですあせる

 

その翌年に長徳の変が起きた訳で、公卿社会との協調姿勢を取らず強い反発を買っていた伊周と異なり下差し

 

隆家と他の公卿達との関係は決して悪くはなかったのですあんぐり

 

特に実資とは、彼の最初の妻である文徳源氏(もんとくげんじ)源惟正(みなもとのこれまさ)娘と、隆家の妻従姉妹同士の

間柄であった等、親族関係で結ばれており実資が隆家の減刑に尽力した背景も知悉出来ると思われます四角オレンジ

 

この後も、道長政権が続く中実資と隆家との関係は良好で、両者はしばしば連携して道長の専横に待ったを掛ける役割を

果すことになりますがサーチ

 

この話はまた先のことにしておきますひらめき電球

 

さて、隆家と同じく、伊周も病気を理由に左遷地下向の猶予を願い出ており、兄弟達の嘆願を聞いた一条帝(いちじょうてい)音譜

 

伊周を播磨(はりま)、隆家を但馬(たじま)に暫し留め置く様、命令を下したのです耳

 

こう考えてみると、花山院(かざんいん)への不敬や、詮子・道長への呪詛疑惑に対して、一条は断固とした処断を言い渡したのですが

 

後から考えて、聊か厳格に過ぎたかと、考え直したのでしょうかはてなマーク

 

兄弟達の嘆願を容れて、暫し任地への下向を猶予したのですひらめき電球

 

もし、このまま彼等が大人しくしていれば時を見計らって都に召喚することも考えていたのかもしれませんが

 

まもなく、中宮定子の里第で、中関白家の栄華の象徴であった二条北宮が焼亡爆弾

 

定子は車に乗る間も無く、下男(げなん)に背負われて、辛うじて避難するという有様であり、邸宅を失った彼女は…

 

生母高階貴子(たかしなのきし)の兄弟である、高階明順(たかしなのあきのぶ)小二条殿(こにじょうどの)を仮邸宅としたのです叫び

 

更に、子供達の相次ぐ不祥事と災難に…

 

心労の度を深めていた貴子が重篤な病に伏し臨終は時間の問題となっていましたあせる

 

生母の危篤の報は、播磨・但馬に逗留していた兄弟達にも知らされたみたいですが…

 

ここで、兄弟は対照的な対応を取ったのですダウン

 

但馬にいた隆家は、外祖父の高階成忠(たかしなのなりただ)を介して、生母の病気見舞いのための入京許可を申請上矢印

 

『天下の荒くれ者』と呼ばれていた彼には、およそ、似つかわしくない思慮分別を見せたのですが

 

播磨にいた伊周は、冷静さを欠いた行動を取ってしまったのですDASH!

 

彼は無断で播磨を離れて、密かに入京目 定子の小二条殿に匿われていたのです十字架

 

果たして、危篤の母に対面出来たかどうか?は不明ですが、伊周が秘かに定子に匿われているという情報は注意

 

こともあろうに、定子に仕える中宮大進(ちょうぐうだいしん)であった、平生昌(たいらのなりまさ)によって密告NG

 

忽ち、身柄を拘束された伊周は、今度こそ本当に太宰府に向けて送還させられることになったのですダッシュ

 

この後程なく、貴子は病没してしまったのですが、母の危篤という、肉親の一大事を受けての中関白家兄弟の対応が

 

真逆であったことが、大変興味深いのですが、これ以降も、赦免により帰京を果した兄弟は

 

それぞれ異なった方法で、復権運動を進めて行くことになるのです完了

 

そのお話をする前に、兄弟達の赦免について触れなければなりませんが

 

この続きは次回と致します丸ブルー