さてさて…
道長(みちなが)と中関白家(なかのかんぱくけ)の対立は…
今や朝廷内に留まらず、双方の従者達が大路で乱闘騒ぎを起こす程までにエスカレートしていました
先には道兼(みちかね)に、そして今回は道長(みちなが)に執政の座をさらわれる形となった中関白家は、相当荒んだ雰囲気に包まれていたものと思われます
生前の道隆(みちたか)が関白として、揺るぎない権勢を誇っていた時は、他の公卿達は中関白家の威光に、唯々平伏していた訳ですが、あくまでもそれは、面従腹背に過ぎず、大黒柱だった道隆が亡くなった途端
権力維持のために様々な画策を行ったにも拘わらず、中関白家は権力の座を明け渡す仕儀となったのです
その背景には、道隆の極端なミウチ贔屓の人事による所が大きかったのですが、彼等の誤算は…
自分達の権力を正当化する権威の象徴とすべく、わざわざ女院(にょいん)という前例のない称号を奉った、ミウチの東三条院詮子(ひがしさんじょういんせんし)が…
道長の危篤を契機に、同家との対決色を鮮明にしたことでした
結局、道隆亡き後の執政は、彼女が推した道兼、更には道長になってしまったのですが、中関白陣営はこの位のことで権力奪取を断念することはありませんでした
特に、故道隆の子供達である、伊周(これちか)・定子(ていし)・隆家(たかいえ)の生母である高階貴子(たかしなのきし)の実家である高階家(たかしなけ)は、同人陣営における反道長の急先鋒でした
貴子の父で伊周達の外祖父にあたる、高階成忠(たかしななりただ)は、娘が関白北の方の座を射止めたことで、本来は五位あたりが極官(ごくかん)である同家最初の公卿となり、最終的には従二位(じゅにい)への躍進を遂げるに至りました
髙二位(こうにい)という通称でも知られていた成忠の子供達も、太政官の官人として枢機を担う地位を得ていたのですが、婿で
ある道隆の病が悪化した折、高階一族は関白の座を伊周に継承させるべく…
相当悪辣な手段を駆使して、これを実現させようと試みました
一条帝が、伊周を『道隆病の間』という条件付きでの内覧(ないらん)に任命しようとした際、宣旨の文言である『病間』を
『病替』に改竄させて、伊周の内覧の恒久化を画策したのですが… 結局この企みは未遂に終わりました
画策虚しく道兼が関白に就任したものの、僅か十日余りで急死した時、世上では…
『道兼様が急に亡くなられたのは、伊周外戚の高階家による呪詛のせいではないか』という噂が飛び交っていました
実際はどうであったのか詳らかではありませんが、道隆の健康状態が悪化した時、道隆本人が道兼による呪詛が原因ではないかと疑惑を抱き…
容疑者として祈祷僧を逮捕 道兼が関与した証拠を掴もうとしたのですが、決定的なそれを得るまでには至りませんでした
嫡男伊周に後任の関白を譲る意思を持っていた道隆が、息子の有力な対抗馬と目されていた道兼の追い落としを目論んだ可能性もあるのですが、中関白家政権の長期化を望んでいた高階家が、政敵となる道兼の呪詛を仕掛ける動機は十分にある訳で…
件の道兼の死因の一つとされる呪詛も、あながち虚構とも言えないですね
そして、道長が執政となった時にも、呪詛騒動が勃発したのです
後世の説話集(せつわしゅう)である百錬抄(ひゃくれんしょう)によると…
長徳元年(995)八月十日、伊周外祖父の高階成忠が自らの邸宅に陰陽師(おんみょうじ)や法師達を招き、道長を呪詛させているという噂が流れていたという記事が紹介されています
あくまでも噂の域を脱していないのですが、当時の道長と中関白家の対立は、恰も合戦の態すら帯びており、伊周関白就任を実現するためには、手段を選ばない高階家の暗躍と暴走ぶりは
既に多くの貴族達の知る所となっていたのかもしれません
当然、道長も自分が呪詛されている危険性を十分認識していた筈で、中関白家とその危険な外戚である高階家の動きには…
警戒の目を光らせていたと思われます
政権トップに立って日が浅い道長にとっては、先ずはその権力基盤の確立が急務でした
その実現のためには、自分の娘を帝の後宮に入内(じゅだい)させて、その間に皇子(みこ)を儲けて外戚(がいせき)となることで
あったのですが、この時点で、道長・正妻倫子(りんし)夫妻の長女である彰子(しょうし)は未だ八歳で、まだまだ入内適齢期に
至っていなかったのです
即ち、当面道長は、後宮政策を行うことが不可能であり、その間に、
一条唯一の后としてその寵愛を独占している定子が、帝の皇子を出産してしまえば、中宮兄の伊周は皇子の外伯父として外戚たる要件を満たすことになり、有体に言うならば…
伊周は暫くは自重のうえ、様子見をしていれば良かった訳ですが
この翌年、伊周と隆家は、自らの軽率な行動によって、墓穴を掘ってしまうことになるのです
いよいよ、長徳の変(ちょうとくのへん)が始まるのです
続きは次回に致します