さてさて…
紆余曲折がありながらも、内大臣伊周(ないだいじんこれちか)への内覧宣旨(ないらんせんじ)が下される運びとなったのですが
ここで、新たな問題が表面化したのです
件の宣旨は、『関白の病の間は、文書は専ら内大臣伊周に内覧せしめよ』という内容であったのですが…
いざ、宣下される段階で、ある筋より、文書内容を変更せよという指示が入ったのです
この指示を出してきたのは、関白道隆(かんぱくみちたか)の正妻、高階貴子(たかしなのきし)の兄弟にあたる、左少弁(さしょうべん)の高階信順(たかしなのさねのぶ)で、彼は、宣旨を作成する大外記(だいげき)の中原致時(なかはらのむねとき)に対して
『関白病間』の『間』を除き、『関白病替』と書き換えることを求めたのです
端的に言えば、文書改竄に他ならず、加えて、帝の命令した宣旨の内容を勝手に変更することは…
正しく、政治のルールを無視するに等しく、許されざる問題でした
貴子の実家である、高階氏(たかしなし)は、貴子が摂政兼家の嫡男道隆の嫡妻となったことを契機に…
それまでの中下級官人である、諸大夫(しょたいふ)に過ぎなかった家格からの上昇を目指す様になりました
貴子の父で伊周・定子(ていし)・隆家(たかいえ)の外祖父である成忠(なりただ)は、東宮時代の一条帝(いちじょうてい)の
東宮学士(とうぐうがくし)を務めた功により、従四位下(じゅしいげ)から従三位(じゅさんみ)に昇叙され
高階家として、初めて公卿の員に備わるという栄誉に浴しました
破格の従三位昇叙の背景には、一条帝の外祖父の兼家(かねいえ)が摂政となり、兼家一家が政治の中枢に位置したことにあった
ことは、論を俟たないと思われます
正暦(しょうりゃく)元年(990)、外孫の定子が一条後宮に入内、更には中宮に冊立された慶事により
同二年(991)、中宮外祖父の成忠は、何と従二位(じゅにい)に位階を進められ、高階家の家格から見れば、あり得ない程の
地位にまで上り詰めたのです
同年、既に老齢に達していた成忠は、出家を果したのですが、この急な出家に至った理由として
身分不相応の破格の地位を得た高階家に対する、貴族社会の不満を逸らす狙いがあったと思われます
なお、関白道隆の嫡妻、則ち『北の方』(きたのかた)となった、成忠娘の貴子は、中宮生母になったことで、正三位(しょうさんみ)に昇叙されたのですが、彼女の兄弟達についても
前出の信順は、五位蔵人(ごいくろうど)から、太政官(だじょうかん)事務局の弁官(べんかん)に昇進
同じく明順(あきのぶ)は、中宮定子の家政機関の職員である中宮大進(ちゅうぐうたいしん)や伯耆守(ほうきのかみ)を
同じく道順(みちのぶ)は、武官である右兵衛佐(うひょうえのすけ)や丹波守(たんばのかみ)等を歴任
以下の通り、成忠の息子達は、弁官や受領、そして姪である中宮定子に仕える等して、政治中枢に地歩を築いていたのです
この様に、関白道隆・伊周の外戚という地位を梃子に、高階家は急速に勢力を伸張させていたのですが、彼等の栄進は…
ミウチを強引に引き立てることで、権力の確立を目論む、道隆の人事政策の一環でもあり、高階一族はその風に乗ることで
家格の上昇を目差すと共に、権力中枢に食い込んでいったのです
この様に、中関白家の威光により、政権要部への進出を果たしつつあった高階一族にとって
道隆の懊悩(おうのう)は、まさしく運命を左右しかねる事態であり、道隆から伊周への権力移譲を一番望んでいた人々こそが…
外戚である高階一族であった訳です
こうした事情から、左小弁であった信順は、太政官の機密事項に関われる立場を利用して、大外記の中原致時に対して…
『病間』を『病替』に書き替える様に、圧力を掛けたのです
『病間』では、道隆が病の間、伊周が内覧の職責を果たすことが出来るのですが、道隆の病が平癒若しくは薨去した時点で
その権限は消滅することになり、云わば条件付きの臨時内覧であるという性格を帯びていました
ところが、『病替』となれば、『関白が病であるから、それに替えて』という意味となり
道隆が病から回復、又は不幸にして亡くなった場合でも、伊周はそのまま内覧の地位に留まることになる訳で…
恐らく、信順を始めとする高階一族は、伊周の内覧が恒久化する(なし崩し的に関白になってしまう)ことを企図して
致時に宣旨の改竄を強制したのでしょう
想像でお話をしてはいけないのですが、この高階一族の暗躍の裏側には、伊周への関白(先ずは内覧)譲渡を、最後の悲願とする、道隆の気持ちへの忖度があった筈で、云わば、中関白家黙認(教唆とも言うべきか…)による改竄工作であったかもしれません
但し、改竄を強要された中原致時は、硬骨の士で、不正の片棒を担ぐ様な人物ではなかったのです
このお話の続きは次回に致します