さてさて…
病重篤となった関白(かんぱくみちたか)の後継問題について
当時の状況から考えますと…
➀官歴の面では、道隆同母弟で右大臣の道兼(みちかね)
②一条帝(いちじょうてい)との婚姻関係の面では、道隆嫡男の内大臣伊周(これちか)
上記二人に絞られていました
即ち、摂政⇒関白の座を掴んだ兼家(かねいえ)が、その地位を嫡男道隆に譲ったのですが…
次期摂関は、道隆兄弟世代(道兼⇒道長)の継承が続くのか
はたまた、道隆の子供世代(伊周⇒隆家)へと移るのか
という、世代間闘争の色彩をも帯びていました
摂関の座を巡る暗闘の帰趨は…
道隆・道兼の妹で、道長の姉、そして伊周の叔母にあたる、東三条院詮子(ひがしさんじょういんせんし)が、どちらを支持するのかにかかっていたのですが、既に中関白家(なかのかんぱくけ)との対立を尖鋭化させていた彼女は、道兼支持の姿勢を鮮明にしており、道長も姉と協同歩調を取っていました
この様な情勢の中、正暦(しょうりゃく)六年(995)二月、病苦の道隆は、一条帝に関白辞任の意思を表明すると共に
伊周への政権継承を図り、強硬な手段に出たのです
三月に入り、病をおして参内した道隆は…
『自分が病の間、伊周を内覧の地位に就けるという宣旨(せんじ)賜りたい』
と一条帝に奏上したのです
この時、道隆が伊周を関白ではなく、内覧に就任させて欲しいと願い出た背景は、若くて政治経験に乏しい伊周には、まだ関白職は荷が重いと考えたのかもしれません
そこで道隆が考えたのが、関白と同等の権限を有する内覧というポストでした
内覧とは、帝に奏上又は帝が裁可する文書を予め見ることができる役職で、摂政関白には最初からこの権限が付与されていました
この他に、予め宣下を受けた大臣が内覧の職務を行うことが出来たのですが、摂政関白を置くことが出来ない等の特別な事情が
あった際に設置され、云わば准摂関とでも言える存在でした
関白がまだ難しいならば、先ず内覧になって実務の経験を積み、そのまま、なし崩し的に関白になったと見なされるだろう
既に、後宮四后制(こうきゅうよんぐうせい)や、皇后の上皇版である女院制度(にょいんせいど)等、次々と新例を作り出した道隆には、これくらいのこじ付け的な論理は朝飯前な訳で、今度は准関白である内覧に就任することで…
『関白に任命されたことにする』という、三つ目の既成事実の形成を目論んだのです
ただ、それを実現するのは、伊周に内覧宣旨が下されることは大前提であり、内覧が任命された先例を根拠にする必要があったのです
直近の内覧任命は、これより二十三年前の天禄(てんろく)三年(972)に、兼家同母兄の兼通(かめみち)が任命された先例があったのですが…
当時、兼通の官職は、権中納言(ごんちゅうなごん)であり、摂関の就任要件である大臣職ではありませんでした
大臣を経ずに、いきなり摂関になることは不可能だったので、先ず兼通は内覧となり、その後、内大臣⇒太政大臣と昇進を重ねて関白に就任していました
云わば、兼通の先例はレアなケースであったのですが、このケースとほぼ同じ手順を踏んで…
権大納言⇒内覧⇒右大臣⇒左大臣と昇進を果したのは、道長その人でした
但し、道長は左大臣に昇進して、関白就任要件を満たしたのですが、何故か関白にはならず、ここから二十年余りの間…
内覧と左大臣を兼帯して、政権を運営して行くことになったのですが、この理由については、後日お話致します
さて、内覧から関白になったという、兼通の先例がある以上、伊周も内覧になれば関白に就任出来るということになる訳ですが…
本来なら、関白就任の資格要件を満たしていたにも拘わらず、こうした遠回りをしなければならない所が…
伊周自身の未熟さもあるとは言え、命旦夕に迫っていた道隆の追い詰められていた状況が垣間見れます
但し、伊周が内覧でいられる期間は、『関白道隆が病の間』という限定的なものであり、道隆の病が平癒若しくは薬石効なく
亡くなった場合は、直ちに内覧の権限は消滅することになっていました
道隆もこのことはわかっていた筈で、恐らく水面下で行われていた、一条帝との事前交渉では…
『伊周を関白に任命して頂きたい』と奏上していたと思われますが
既に十七歳となり、政治に対する自分の意思を持つ様になった一条は、たとえ道隆が愛する中宮定子(ちゅぐうていし)の父親で
あろうとも…
これまで通り、彼の言いなりになることはなかったのです
恐らく、母親の東三条院からも、『伊周の関白就任はノー』という意向が伝えられていたと思われ、一条は妻の父と母の間で苦悩していたと思われます
交渉が捗らないことに痺れを切らしたのか
関白ではなく、これに准じる内覧(しかも自分が病の間という限定措置)に切り替えて、道隆は一条の譲歩を引き出そうとした
と推測されます
こうした遣り取りがあった後、蔵人頭斉時(くろうどのとうただとき)より
『関白が病を煩う間、雑文書・宣旨等は、先ず関白道隆に内覧させ、次いで内大臣伊周に内覧させて奏聞せよ』
という一条の意向が、伊周に伝えられました
ところが…
これに対して、伊周は猛然と抗議を唱えたのです
続きは次回に致します