さてさて…
次女原子(げんし)を東宮居貞(とうぐういやさだ)に入侍させることを、既定路線にしていた、摂政道隆(せっしょうみちたか)が…
何故、大納言済時(だいなごんなりとき)の娘娍子(せいし)の東宮後宮入りを容認したのか
当時の政局や後宮情勢から鑑みても、結構複雑な事情があったと思われます
先に、居貞の後宮に入っていた、兼家四女綏子(すいし)は、東宮との関係悪化に伴い、内裏を退出して、実家である里第(りだい)に居ることが多くなっていて
彼女が居貞の皇子を産む可能性は、極めて少なくなりつつありました
正暦(しょうりゃく)二年(991)、新たに娍子が東宮後宮に入って以降は、この里居の傾向は更に強くなっていたのですが
そればかりでなく…
時期はもう少し後になるのですが、綏子は村上源氏(むらかみげんじ)の源頼定(みなもとのよりさだ)との密通が発覚
里第に引き籠ることを余儀なくされてしまったのです
事実上の別居状態となった綏子は、異母姉兄である、東三条院詮子(ひがしさんじょういんせんし)と政権首班となって間もない
道長(みちなが)が後見していたのですが…
引き続き頼定は、里居していた綏子の許に通い続け、彼女はその子供を懐妊してしまったのです
東宮の妃(尚侍)という地位にありながら、廷臣と密通するという不始末を犯しながら、彼女は妃位を廃されることはなかったのですが、里程滞在を良いことに、更に密通を重ねた挙句に…
不義の子を宿してしまうという最悪の展開に、東宮居貞は激怒
大変な事態となってしまうのですが、この話しは機会を改めたいと思います
お話を娍子入侍の時期に戻しますが、居貞との不仲、更には綏子が起こした不祥事により
東宮の外孫を兼家一族から出すという構想に、暗雲が立ち込めた訳で、道隆は早急に温存していた原子を、居貞の後宮に入れたかったと思われますが…
いくら道隆が入侍を急ぎたくても、原子はまだ適齢期に至っておらず、今暫くは待ざるを得なかったのです
その間隙を衝いたかの様に、大納言済時は娍子入侍を果したのです
渦中の人となった娍子は、天禄(てんろく)三年(972)に済時の長女として誕生、天延(てんえん)四年(976)生まれの居貞とは、四歳年長となります
歴史物語の『栄花物語』(えいかものがたり)によると、花山朝の御世、花山帝(かざんてい)から娍子入内の打診があったのですが…
父済時がこれを辞退したという話が掲載されています
色好みで知られた花山からの入内打診があった位なので、娍子はかなりの美女であったと思われますが…
この色好みということは、則ち気持ちの移り変わりが激しいということにも繋がり、ましてや東宮時代から、その方面には積極的だった花山の所業は夙に知られており、いくら『きさきがね』の娘として大切に育てていたとは言え…
娘の幸せを考えれば、流石に済時は入内を躊躇ったのでしょう
さらに、これは個人的な見解なのですが、済時の同僚(年齢は一回り近く下でしたが)で、酒友達でもあった権中納言朝光(ごんちゅうなごんあさてる)も、同じく花山の要請により、娘姚子(ちょうし)を入内させていたのですが…
彼女に対する花山の寵愛は長続きせず、結局、僅か一か月弱で内裏を去る事態になってしまいました
失意の彼女は、永延(えいえん)三年(989)に十九歳の若さで死去してしまったのですが、彼女と娍子は生年が近いこともあり、共に花山の妃候補リストに載っていたと考えられます
推測を逞してさせて頂きますと、姚子が内裏を退いた頃、未だ済時は娍子入内に踏み切れなかったかもしれず、姚子の父である
朝光が娘の受けた仕打ち(父親としては耐え難いものだった筈です)について、済時に伝えると共に…
『入内は見送った方が良いと思う』と忠告した可能性が髙いと思われます
日頃から、胸襟を開いた酒仲間の朝光の忠告を受け、済時は花山の申し出を辞退した訳ですが、結果としてこの決断は…
間違っていなかったと言えます
花山のオファーを断り、帝も花山から一条へと代替わりしたのですが、新帝は元服したとはいえ、未だ十一歳に過ぎず、帝との
年齢差を考慮しても、娍子の入内は現実味がなく、加えて…
摂政兼家の後継となった、道隆の長女定子(ていし)が一条に入内した以上、ますます娍子の入内は遠のいてしまったのでしょうね
まもなく、二十歳の声を聞く娍子の嫁ぎ先を如何にすべきか
済時も思案に暮れたと推察しますが(左大臣源雅信も同じ悩みを抱えていましたね)
帝が難しければ、次期帝たる東宮はどうかという考えに至ったのかもしれません
その様な中、綏子との関係が破綻しつつあった居貞から…
娍子入侍の打診があったと考えるのは
決して荒唐無稽な話ではなく、寧ろあり得るではないでしょうか
前述の通り、四歳違いで、年齢も釣り合っており、美貌で知られた娍子の後宮入りを、居貞は望んだと思われます
ましてや、綏子の父で、外祖父であった兼家や、一条の父で冷泉皇統を敵視していた、円融院(えんゆういん)も亡くなっている
以上、居貞は誰に憚りもなく、この入侍話を進めることが出来たのでしょう
娍子にとって、これが皇室に入内出来る最後の機会となるかもしれず、遂に済時は決断したものと理解出来ます
ところで、道隆にしてみれば、原子が未だ入侍には早すぎるということもあり、有効な対策が打てず、娍子の後宮入りを静観するしかなかったのですが、恐らく、済時は道隆に対して…
入侍に至る経緯や、小一条流家(こいちじょうけ)の状況等も説明、入侍を承諾して欲しい旨を懇願したと思われます
気心の知れた酒友達であり、尚且つ、道隆は済時が兼帯していた右大将を、同母弟道兼(みちかね)に譲って貰ったことの見返りに
自身が兼任していた左大将の地位を済時に譲った経緯からも、良好な関係を築いていました
同じく良好な関係にあった朝光も、両者が折り合いが着ける様、尽力したと思われ…
道隆は、娍子の東宮後宮入りを承諾したと思われます
但し…
道隆は、原子が適齢期に達したら…
➀居貞に入侍させる
②何れ居貞が即位した際の皇后については、あくまでも、娍子より原子が優先されることを
済時に伝え、彼もこれを承諾したと思われます
この三年後、道兼が右大臣、嫡男伊周を内大臣に昇進させていることからも、道隆は大臣職を身内で独占する意思を鮮明にして
おり、大納言済時が大臣になる可能性は殆どありませんでした
もし仮に、済時が大臣になれば、その娘である娍子が、皇后となる資格を有することになるので…
流石にそういう事態になることを、道隆は回避したかったのでしょうね
とは言っても、当時の状況を考慮したうえでの、合意に過ぎず、この後の状況が変化すれば
この合意は、反故にされる事態も考えられたのですが…
娍子が居貞の後宮に入ってから四年後の長徳(ちょうとく)元年(995)
道隆と済時、そして二人の良き酒友達である朝光も、相次いでこの世を去ってしまうのです
以上、多分に、憶測を交えて話してしまいました
本日はここまでにします