さてさて…
昨日の『光る君へ』第十七回放送で、道長長兄の関白道隆の最期が描かれました
井浦新(いうらあらた)さんが、死期が迫って崩壊して行く道隆の姿を、迫真の演技で表現しており、まさしく鬼気迫るものが
ありました
(迫る×3になってしまいましたが)
ところで、大河ドラマでの井浦さんと言えば、十年以上前の『平清盛』(たいらのきよもり)の崇徳上皇(すとくじょうこう)が
印象に残っているのですが、保元の乱(ほうげんのらん)に敗れて、讃岐(さぬき)に配流された上皇が、生きたままの怨霊と化して猛威を振るう場面がありました
(覚えておられる方も多いかと思いますが)
目から血の涙を流し、神・爪・髭は伸びるにまかせ、悪霊となって後の世に長く脅威を与えたとされる崇徳の凄まじさに
暫くは部屋の電気を付けたままでなければ、眠れない程の怖さを覚えたのですが、今回の井浦道隆の怪演ぶりを見て…
タケ海舟は、その時の事を彷彿させられました
道隆終末期の政局については、後日このブログでも触れたいと思いますが
今回は、ドラマ最後の場面で、道隆が詠んだ和歌について
私見を交えてお話致します
忘れじの ゆくすゑまでは かたければ 今日(けふ)をかぎりの 命(いのち)ともがな
この歌の意味は…
『いつまでも、私を愛して忘れまいとおっしゃっる、その遠い将来までは頼みにしがたいから、(その言葉をお聞きした)今日を
限りに死んでしまいたいものでございます』
上記の如くでありますが、お察しの通り、この歌の作者は女性で、道隆の正妻である高階貴子(たかしなのきし)が詠んだ歌で
あります
前回の記事でもご紹介しましたが、学者貴族である高階家の娘に生まれた貴子は、父親から和漢籍を学び、宮中女官として
勤仕していました
その教養を以って、歌会でも優れた句を披露していた彼女は、少し以前の表現で言うならば、キャリアウーマンとして宮中で
異彩を放っていたと思われます
女官のナンバー3に相当する、掌侍(ないしのじょう)に出世した彼女は、実家の高階の字を取って、『高内侍』(こうのないし)とも呼ばれていたのですが、そんな彼女に一目惚れをしたのが…
名門である藤原北家九条流(くじょうりゅう)の御曹司(おんぞうし)の道隆でした
貴子の生年が不明ながらも、両者は同世代であったと思われますが、宮中内侍所(ないしどころ)で出会った貴子に惹かれた道隆が和歌の遣り取りを通じ、熱心な求愛をしたと想像されます
(この話は、劇中で道隆が二度も言っていました)
いうまでもなく、有力公卿の嫡男である道隆は、婿入りの話には事欠かなかった思われますが、貴子も貴公子然とした彼に惹かれたと考えるのが自然でしょうね
しかしながら、将来は摂関として、国政を担う立場になる可能性があった道隆の妻としては
貴子の実家である高階家は、身分的な釣り合いが取れなかった訳で、運良く妻になれたとしても、せいぜい妻妾の一人として
遇されるのが妥当だったと言えます
ところが
道隆は貴子の美貌に惚れた事は事実でしたが、彼が彼女に惹かれた一番の美点は
彼女の深い学識に裏付けられた、知性と進歩的な考え方だったと思われます
この後、道隆は彼女との間に、伊周(これちか)・定子(ていし)・隆家(たかいえ)を始め、三男四女を儲けるのですが、これ等の
子供達は貴子(実家の高階家によるとも言って良いかも)により、高水準な和漢籍の教育を受けているのですが、それ以上に看過してはならないのが…
その知識を当意即妙に尚且つ、現場で活用するという、実践的な思考に富んでいた所でした
特に、伊周と定子は、母のそうした進歩的な面を受け継いでおり
前者は廟堂での政務や儀式の場で、後者は帝の私的空間である後宮において、その力量を発揮
ともすれば、保守的且つ閉鎖的になりがちな宮廷社会に新風を巻き起こしたのです
因みに、中宮となった定子を主人とする後宮では、夫である一条帝が、その雰囲気に馴染んだ事もあり、多くの若手公卿が集うモダンな宮廷サロンを形成することに成功したのですが…
伊周の場合は、先例遵守こそが第一とされる政務の場では異端視扱いされ、伊周自身の傲慢で協調性に欠ける性分も災いして
貴族社会で彼は孤立するに至ります
(それが、道隆亡き後の、彼の没落に繋がるのですが…)
少し、話が横道に逸れてしまいましたが
将来は外戚となり、国政を領導する地位を目指していた道隆は、後宮に入内させる、『きさきがね』の娘の養育には、十分意を用いていた筈で、帝の心を捉えて離さない后になるために必要なのは…
魅力的な容姿・美貌は勿論ですが、それ以上に…
確かな教育に裏打ちされた知性が、必要であると考えていたと思われます
道隆の意図を十二分に汲み取れる女性こそが、キャリアウーマン(女性官僚)として宮中で輝いていた貴子であり…
加えて、完全に一目惚れしてしまったことも手伝い、猛烈な求愛アピールを続けたのでしょう
では、お相手の貴子は、道隆に対して、どんな印象を抱いていたのか
詳しくはわかりませんが、今回の和歌を詠めば、あれ程度察する事は可能で、正しく両者は、相思相愛の間柄であったと考えて間違いないと思います
こうして、あっという間に… 恋に落ちてしまった二人ですが、貴子の父である高階成忠(たかしなのなりただ)は
余りに身分差が違い過ぎるという懸念からか、娘が遊ばれていると思っていた節があり
当初は、道隆の入婿には難色を示していたとされています
但し、貴子の許へ通って来た道隆が帰る後姿を見て
『必ず出世栄達するであろう』と予言
彼を婿に迎える決断をしたのです
当然ながら、婿殿としてお世話する事になった以上、高階家は数ヶ国にわたる受領勤務で蓄えた財を駆使して、道隆を後見するのですが、貴子が産んだ子供達への教育にも抜かりがなかった事は、論を俟たなかった訳で
特に嫡男となる伊周に対しては、外祖父成忠自らが、薫陶を施したと言われています
この様な状況を背景に…
四位から五位になるのが関の山であった、一介の中級貴族に過ぎなかった高階家が、名門御曹司の道隆の妻として、『玉の輿』に乗った貴子の縁を足掛かりにして
自家の栄達を夢見る様になるのは自明の理で、それがあまりにも露骨に過ぎた事が…
道隆の中関白家(なかのかんぱくけ)の評判を落とし、他の貴族達の反発を買う一因になった事は否めないと思われます
さて、冒頭の貴子の和歌は、道隆が彼女に通い始めた頃の物であり、当時二人は…
恋愛真っ盛りの、幸せ絶頂期であったと言えます
愛されて幸福だけれども、この気持ちが将来まで続くとは限らない…
それ故に(幸せ一杯の)今日を一期に死んでも悔いはない
彼女の優しくて、正直な想いが、ストレートに伝わって来る歌であります
恐らく、送られて来たこの歌を詠んだ道隆も、嬉しい気持ちに包まれた事は想像に難くなく
両者は一挙に結婚へと突き進んだのでしょう
いうまでも無く、貴子は道隆の目指す高みを知悉しており、以後は彼の力となるべく、その才能を存分に発揮
子宝に恵まれた事もあり、正妻(北の方)となった貴子は、道隆が摂政・関白となった事を受け、主にその後宮政策を受け持ち、
進歩的な定子サロン形成に、多大なる貢献を果たしたのです
飲水病(糖尿病)に侵された、道隆の早世が残念であったにせよ、夫婦二人三脚で高みを目指した彼等の夢は…
短かったにせよ、達成された訳で
当時としては珍しい、恋愛結婚で結ばれた異色の夫婦は、大変幸福な年月を過ごしたと、言って良いのではないでしょうか
しかし、夫の死後、あっという間に、子供達が転落して行く姿を見なければならなかった、貴子の心中は…
察するに余りありますが
本日はここまでに致します