定子入内の背景は? そして円融院の崩御! | タケ海舟の歴史事件帳

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さてさて…

 

摂政道隆(せっしょうみちたか)ゴリ押しが功を奏して

 

後宮四后体制(こうきゅうしごうたいせい)が発足しました花

 

まだまだ十一歳に過ぎない一条帝(いちじょうてい)は、三歳年長の優しくて綺麗なお姉さんである定子(ていし)が大好きなのでパー

 

道隆に『何卒定子様を中宮にお立て願います!と頼まれたら十字架

 

『朕は定子が好きだから、定子を中宮にせよ!と言うのは、火を見るよりも明らかでしたぶー

 

たとえ幼くても帝は帝ですので、一度一条が発した命令が覆る筈はなくサイコロ

 

公卿達の猛反対等、いとも簡単に黙殺されてしまったのですくちびる

 

ここに、同じ外戚(がいせき)でも、(関白に比べて)摂政の権限の絶大さが窺われるのですがおいで

 

権力を承継したばかりの道隆は、先ずは自己の政権基盤の強化に努めなければならず、そのためには昇天

 

多少の強引な手法も致し方なし上矢印

 

と腹を括っていたと思われますDASH!

 

その第一の策が、定子の中宮冊立(ちゅうぐうさくりつ)と、往古(おうこ)類をみない後宮四后体制だったのです拍手

 

現状において、一条の後宮には定子以外の妃は居なかったのですが、今後将来において、他の公卿達の娘達が入内する可能性は否定出来ませんでしたDASH!

 

当時十四歳である定子は、まだ出産適齢期ではなく三歳年少の一条も同様でした指輪

 

定子が一条の皇子を産むには、まだ数年かかる訳で、その間、一条が成長した頃を見計らい、有力公卿達が娘を入内させる動きを見せることは十分想定されていましたうずまき

 

そうした公卿達の動きを、摂政の権力をカサに封じることは、ある程度出来るのですが…

 

一条が定子以外の妃を望まないとは限らず、そうなれば、いくら外戚摂関たる道隆でも…

 

これを押さえることは難しかったのです目

 

それ故に道隆は、有力公卿の娘が入内して皇子を産んだ場合を想定して、定子の中宮立坊を急いだのですくちびる

 

仮に、女御となった他の公卿の娘が皇子を産んでも、その皇子の生母は一女御に過ぎず、この後に正后たる定子が皇子を儲ければ

 

生まれた順番等は関係なく后の格で上回る定子の出生の皇子が東宮(とうぐう)になることは、必然の論理だったのです100点

 

そうした、リスクマネジメントとして、定子の中宮立后は断行された訳で、正しく道隆の策は妙手だったのです花

 

ところが…

 

多くの反対を押し切って創設した、後宮四后体制ですが、一年も経たぬ内に終焉を告げてしまったのですNG

 

その契機となったのはドキドキ

 

一条帝の父である、円融院(えんゆういん)の崩御でした叫び

 

我が子一条の即位を機に、円融は父院として政治への影響力を及ぼそうとしたのですがあし

 

その事は、一条の外戚である摂政兼家や国母(こくも)の皇太后詮子(こうたいごうせんし)の容認出来る所ではありませんでしたガーン

 

円融は除目(じもく)に対しても、しばしば介入することもあったのですが、特に象徴的だったのがパー

 

道隆の任内大臣を認める代わりに小野宮実資(おののみやさねすけ)の任参議(にんさんぎ)を実現させた一件でしたカギ

 

この他にも円融は、兼家が推進した一条の日大社行幸(かすがたいしゃぎょうこう)にも異論を唱える等、頻繁に政治への介入を行ったため、兼家最末期の政局は、しばしば緊迫の局面を惹起させていましたあせる

 

(この行幸問題は、北野天満宮(きたにてんまんぐう)の託宣があったという理由で、兼家が押し切る結果となりましたラブラブ)

 

正暦(しょうりゃく)元年(990)に政界から引退した兼家が、同年七月に死去した時点で…

 

恐らく、円融はこれまで以上に一条帝への父権行使を目論んでいた筈で、寧ろ…

 

兼家より道隆の方が御し易いだろう!と考えていたのかもしれません電球

 

海千山千だった兼家との間に、互角に近い政治抗争を繰り広げた円融は、相当強かな政治手腕を身に付けておりあし

 

正直、大した苦労もなく、兼家から政権を受け継いだ道隆は、円融の政治介入を危惧していたと思われますキョロキョロ

 

更に円融の許には、兼家・道隆に反発する非主流派勢力が結集しており、兼家死後の政局は更に混迷の度を深める可能性を孕んでいたのですがNG

 

兼家の死から、僅か八か月後の、正暦二年(991)三月、円融院は三十四歳の若さで崩御してしまったのですえーん

 

在位中より、病弱であった円融は、何度も健康を害したことがあったのですが、崩御直前の動静については、古記録(こきろく)等には残されておらず、詳しい状況は詳らかではありません左右矢印

 

推測を逞しくさせて頂くのですが、『光る君へ』で、兼家は円融を退位に追い込むべく息子道兼(みちかね)に命じて、食膳に毒を盛らせていましたバツブルー

 

勿論、死なない程度には毒の配分を加減していましたが、兼家の思惑通りに、円融は退位しましたバイバイ

 

兼家薨去に伴う、不安定な政局運営を行わなければならなかった道隆にとって、円融の政治介入は大きな懸念材料であったことは間違いなかった筈で…

 

『どの様な出方をするのか?戦々恐々としていた最中の、円融崩御であり、もしかしたら…メモ

 

何らかの手が伸びた可能性も、あるかもしれませんね下三角

 

(あくまでも、仮説の域を出てはいませんがアセアセ)

 

さて、円融の崩御により、精神的支柱を失った反主流派陣営も、道隆政権と事を構えることを断念18禁

 

特に兄に後継者の座を奪われた道兼は、小野宮流(おののみやりゅう)の公任(きんとう)実資との提携を維持しつつも流れ星

 

道隆政権に参与上矢印その次の機会を窺うという方針に切り替えたのですキラキラ

 

同じく、道長父の喪中にも拘わらず定子立后を強行した道隆に反発炎

 

定子の家政機関のトップである、中宮大夫(ちゅうぐうたいふ)に任命されたにも拘わらず、定子立后の儀式に出席しない形

兄への抗議の意志を表明したのです18禁

 

(もっとも、この後は、中宮大夫の職責を果たしたのですがサイコロ)

 

かくして、円融院の崩御という神風(この様な表現は相応しくないと思いますが♀)により、摂政道隆は一息ついたと思われますがくちびる

 

間髪を入れず、政権強化に資する第二の策を実行に移したのですぐぅぐぅ

 

それは、先の後宮四制度以上の衝撃を貴族社会に与えたのですw

 

続きは次回に致しますパー