さてさて…
元々、明子(めいし)の父親である、源高明(みなもとのたかあきら)は、藤原北家九条流(ふじわらほっけくじょうりゅう)との
昵懇な関係を築いていました
師輔(もろすけ)の二人の娘を、それぞれ正妻・継室に迎えていることからも、それは顕著であり、更に妻たちの姉である中宮安子(ちゅうぐうあんし)の中宮大夫(ちゅぐうたいふ)を兼任する等、政治的な提携関係にあったことは論を俟ちませんね
師輔・安子との緊密な関係は、高明の政治的地位を大いに高めたのですが、後ろ盾であった二人が相次いで亡くなったことで…
その立場は微妙になりつつあったのです
いくら姻戚関係にあるとはいえ、醍醐帝(だいごてい)の皇子で、賜姓源氏(しせいげんじ)である高明は
藤原北家の面々から見れば、所詮はよそ者に過ぎず、非藤原系列に属する高明の台頭に対して…
➀師輔の子供達である伊尹(これまさ)・兼家(かねいえ)
②小野宮流実頼(おののみやりゅうさねより)(師輔兄)
③小一条流師尹(こいちじょうりゅうもろただ)(師輔弟)
彼等は警戒感を強めていたと思われます
それでも、師輔や安子在世時は、そうした不満を表に出すことはなかったのですが、彼等が死去したことで…
それまで鬱積していた不満が表面化したと言えます
彼等と高明の対立が、決定的になった出来事が、村上帝(むらかみてい)第四皇子の為平(ためひら)と高明娘(生母は師輔三女)との結婚であり
次々期東宮として有力視されていた為平に、娘を入侍させたことは則ち
将来即位する為平に皇子が生まれた場合、外孫になる高明は外祖父として強い権力を得ることになり、それは正しく
藤原北家が権力の座から陥落することを意味していました
権力を掴むには、帝の外戚になることが最も有効な方法であり、そのことによって恩恵を受け続けていた藤原北家は
同時に外戚の地位を失うことの恐ろしさも、十分過ぎる程に認識しており、ここに至って彼等は…
それまでの(外戚を巡る)身内同士の競争を、一旦封印
共通の敵と化した高明排除で連携することになったのです
一方の高明も、師輔・安子の死去で、自身の政治的地位が揺らぎ始めていたことを知悉しており、敵対勢力に対抗すべく…
娘を為平親王に入侍させた訳で、当然ながら、村上帝もこの結婚を承認していたのです
こうして見ると、藤原陣営と同じく、高明にも権力への野望があったことは否めず、政局は
村上帝の次、更にはその次の帝の外戚を巡る争いへと移ったです
こうした中で、康保(こうほう)四年(967)に在位のまま、村上帝が崩御
予ての路線通り、東宮であった憲平(のりひら)が践祚冷泉帝(れいぜいてい)となったのですが…
本来ならば、新帝践祚後に直ちに行われる東宮選定が行われず、漸くそれが行われたのが
冷泉即位の三か月余り後のことであったのです
しかも、その結果は、候補であった冷泉同母弟のうち、年長であった為平ではなく、その弟で当時九歳であった守平(もりひら)が東宮に立てられたのです
当時十五歳だった為平は、冷泉とも年齢が近く、東宮には最適の存在であった筈だったのですが、彼の岳父である左大臣高明の
これ以上の権勢拡大を恐れた藤原北家面々は…
為平をスルーして、その弟である守平を東宮に擁立することで一致
かくして、守平は東宮に立坊されたのです
このことは、太政官(だじょうかん)首席の左大臣でありながら、高明が政界で既に孤立状態であったことの証左であり
当時の貴族社会の大勢も、藤原北家が後見する、帝冷泉と東宮守平を中核とする、路線を支持したと思われます
外孫の東宮就任が不首尾に終わったことは、高明に大きなショックを与えたのですが、推測を逞しくさせて頂くならば、彼は
『このままでは終わらぬぞ』という捲土重来の機会を窺っていたかもしれませんね
実際、この翌年の安和(あんな)元年(968)には、帝の皇位継承に際する祭事である大嘗会(だいじょうえ)が挙行
更には、同年には、冷泉の第一皇子である師貞(もろさだ)(後の花山帝)が誕生
等々、表面上は何事も無いかの様に、政務や儀式が行わわれ、加えて慶事もあったのですが…
嫡流冷泉に皇位を継ぐべき皇子が誕生したこと受け、為平親王の皇位継承の可能性は薄くなり
最早高明にも、打つ手がなくなっていたのかもしれません
但し、藤原北家の政敵排除方針は変わらず
高明にトドメを刺すべく、お家芸である、謀略を仕掛けたのです
即ち、安和の変(あんなのへん)は、この翌年に勃発したのです
続きは次回に致します