さてさて…
昨日の『光る君へ』では…
花山帝(かざんてい)が出家・退位に追い込まれた、寛和の変(かんなのへん)の一分始終が描かれました
この寛和の変について、タケ海舟は高校時代の古文の授業で勉強したことがあったのですが…
先日、その時の教科書を引っ張り出して、読み返してみました
事件の経緯については、歴史物語『大鏡』(おおかがみ)にて詳しく記されているのですが、
昨日の放送は、概ねその内容に沿った内容でした
『大鏡』では、『共に出家しましょう』
と花山を騙して、内裏より連れ出し、帝が元慶寺(がんけいじ)で出家したのを見届けた後
『父に出家前の姿を一度見せてから戻ります』
と言い残してその場を去ったまま、二度と帰らなかったのは…
兼家三男で、蔵人(くろうど)であった道兼(みちかね)でした
なお、劇中では…
『お仕え出来て、楽しゅうございました』
と見下した視線で花山を一瞥
右大臣家の侍達に守られ、花山を置き去りにしたまま、悠々と寺を去って行ったのです
この時に至って、漸く花山は自分が謀られたことを知ったのですが、、出家してしまった以上、帝の位に留まる訳にはいかず…
僅か一年十ヶ月の治世の幕を、唐突に降ろされてしまったのです
この時を以って、花山は出家した太上天皇(たいじょうてんのう)、則ち法皇(ほうおう)となり、以後は花山院(かざんいん)と
呼ばれることになったのですが、花山の他に当時の天皇家には
➀冷泉院(れいぜいいん)→花山の父
②円融院(えんゆういん)→花山の叔父、寛和元年(985)に出家、法皇となる
の二人の院がいて、そのうち二人が法帯(ほうたい)となってしまったのです
ご存知の通り、当時出家をすることは、世俗の事には一切関りを持たないという、意思表示に他ならず、出家前に帯びていた
官位も俗世の物である以上、その地位を棄てなければならなかった訳で
この事は、帝であった花山に限らず、公卿(くぎょう)を始めとする貴族達にも、等しく適用されていたのです
さて、この事を踏まえて
『花山降ろし』ともいうべき寛和の変は、東宮懐仁新王(とうぐうやすひとしんのう)の即位を望んでいた、右大臣兼家主導の
謀略であったことは、史実的に見ても間違いはなく、花山を出家させることに成功した道兼は…
まさに懐仁即位の立役者と言っても過言ではありませんでした
変事と日を同じくして、道兼は蔵人頭(くろうどのとう)に昇格
同じく、五位蔵人(ごいのくろうど)に任じられた異母兄道綱(みちつな)と共に、新帝懐仁の秘書機関たる蔵人所(くろうどどころ)を掌握するに至ったのです
そして、新帝の外祖父という、摂関就任の最大要件を満たしている兼家が…
外戚関係がなかったにも拘わらず、円融・花山二朝時代の関白を務めていた頼忠の譲りを受けて、摂政の地位に就いたのです
何故関白でなく、摂政となった理由についてですが、懐仁は未だ七歳という幼年で、とても政治を行い得る年齢ではなく、
帝の代わりに万機を総覧する摂政に就任したのです
こうして、念願の摂政の座に就き、名実ともに最高権力者の座に就いた兼家ですが、この時彼は、既に五十代半ばを越えており
このまま花山の在位が長引けば…
自身が生きてるうちに、懐仁が即位出来ない可能性が髙まる訳で…
最早これ以上は待てなかった
というのが、兼家の正直な心境だったのでしょう
それ故、なり振り構わぬ強引な手法で、花山を玉座から引きずり降ろしたのですが…
いくら兼家達、右大臣家が一致団結して綿密な計画を立てたとしても
帝を退位させるという、一つ間違えれば大逆罪(たいぎゃくざい)にもなりかねない危ない橋を
流石に彼等単独では渡ることは難しかったと思われます
それでは、何故クーデターが成功したのでしょうか
その理由としては…
『花山政権がこれ以上続くことを望まない』
という、貴族社会の総意があったことが挙げられるのですが
もう一つ見落としてはいけないのは…
兼家同様(ある意味、兼家以上に)、懐仁即位を熱望していた、父院(ふいん)円融の存在であったのです
続きは次回に致します