さてさて…
本日は『光る君へ』で、日に日に存在感を増している
左大臣源雅信(さだいじんみなもとのまさのぶ)の娘倫子(りんし)についてお話致します
尚、劇中において、彼女は倫子(のりこ)という訓読みで呼ばれていますが、この読み方が正しいのか
史料的な裏付けがありませんので、(間違いがない)音読みの倫子(りんし)でお話をさせて頂きます
後に、藤原道長(ふじわらのみちなが)の嫡妻(ちゃくさい)となる倫子は
道長に『望月の栄華』(もちづきのえいが)をもたらした運命の女性であった
と言い切っても過言ではないと思いますね
一家三后(いっかさんぐう)則ち、一つの家から同時に天皇の后(きさき)を三人も出すという未曽有の栄誉に浴した道長ですが
➀彰子(しょうし)→一条帝(いちじょうてい)中宮で、後一条(ごいちじょう)、後朱雀(ごすざく)両帝の生母
②妍子(けんし)→三条帝(さんじょうてい)中宮
③威子(いし)→後一条帝中宮
④嬉子(きし)→東宮時代の後朱雀の妃(きさき)で、後冷泉帝(ごれいぜいてい)の生母
前出の三后とは、上記➀~③の娘達を指しており、④についても、後冷泉を出産直後に命を落とすという不運に遭わなければ…
後朱雀即位の暁には、間違いなく皇后(中宮)に立てられた筈で、事実上は…
一家四后(いっかよんぐう)に等しいと思います
この四人は、全て倫子所生の娘であり、彼女は後宮の后妃となった娘達を、陰日向を問わず、愛情を以って支え続けたことでも
知られています
この様に、道長にとって、倫子はまさに幸運を呼ぶ妻であったのですが…
実は彼女と道長との結婚は、当時の政局が引き起こした、偶発的な要因が重なった結果とも言われています
ところで、先ず倫子の生年ですが、村上朝(むらかみちょう)の康保(こうほう)元年(964)に宇多源氏(うだげんじ)の
源雅信(みなもとのまさのぶ)の娘として誕生しました
因みに、夫となる道長は、倫子に後れること二年の同三年(966)誕生で、則ち倫子は姉さん女房でした
但し、当時としては、姉さん女房は決して珍しいことではなく、特に男子の初婚時は年上の妻の許に婿入りするケースが多かったみたいです
彼女の母は、藤原北家高藤流(たかふじりゅう)の右大臣定方(さだかた)五男である、中納言朝忠(ちゅうなごんあさただ)の娘
穆子(ぼくし)で、正妻として夫雅信と同居していました
即ち、倫子は正妻腹の嫡女(ちゃくじょ)であり、父親の鍾愛を受けて順調に成長したと思われます
ところで、他の貴族と同じく、雅信も多くの妻妾を娶り、子宝にも恵まれていたのですが、彼女には分かっているだけでも三人の姉妹がいました
その中で同じ穆子を母に持つ、妹の中の君(なかのきみ)は、道長の異母兄道綱(みちつな)と結婚しており、雅信・穆子夫妻にとって道長・道綱兄弟は相婿(あいむこ)ということになります
他の二人は、生母不明で生まれ年の不明な異母姉妹と思われますが、それぞれの嫁ぎ先をご紹介しておきますと…
➀村上帝第三皇子致平親王(むねひらしんのう)室で、源成信(みなもとのなりのぶ)母
②北家小一条流定時(こいちじょうりゅうさだとき)室で、中古三十六歌仙(ちゅうこさんじゅうろっかせん)としても知られる
実方(さねかた)母
ということになります
雅信の四人の娘の中で、生年が判明しているのは倫子のみなので、姉妹との年齢差等が良く分からないのですが、同母妹である
中の君以外は、概ね村上朝~円融朝初期の間に婚姻が交わされていたと考えられます
そうなると、正妻穆子が産んだ二人の姉妹は、嫡妻腹の大切な娘であった訳で、それ故に彼女達の婿には…
最悪でも、藤原北家主流に代表される大臣家の子弟(それも後継者)であることを念頭に入れていたと考えられます
因みに、私は最悪でも… という言葉を用いましたが、推測を逞しくさせて頂けるならば…
雅信は二人の娘の内のどちらかを、帝の後宮に入内させたい意向を持っていたのでないかと思っています
平安前~中期の天皇は、多くの子女を後宮に擁していたのですが、彼等が皆、親王(しんのう)・王(おう)、内親王(ないしんのう)、女王(じょおう)として皇族身分を有していたら、彼等の生活保障等で莫大な経費が必要になる訳で、流石にそれら全ての
面倒を見ることは不可能でした
その対策として案出されたのが、生母の身分が低い男女皇族に姓(せい)を与えて、臣籍に降下させるという賜姓制度(しせいせいど)でした
特に、男系皇族の場合、皇位継承者の資格範囲を限定するという意図もあったのですが、彼等に与えられた姓の中で一番多かったのが…
『源』(みなもと)という姓、則ち賜姓源氏(しせいげんじ)でした
源の他にも、『平』(たいら)、『在原』(ありわら)、『良峯』(よしみね)等の姓も与えられたのですが、源氏賜姓が圧倒的に
多く、時の帝の名前をとってそれぞれ
➀嵯峨源氏(さがげんじ)
②仁明源氏(にんみょうげんじ)
③文徳源氏(もんとくげんじ)
④清和源氏(せいわげんじ)→陽成源氏(ようぜいげんじ)
⑤光孝源氏(こうこうげんじ)
⑥宇多源氏(うだげんじ)
⑦醍醐源氏(だいごげんじ)
⑧村上源氏(むらかみげんじ)
と称されていました
雅信の場合、宇多天皇の孫として、当初は雅信王(まさのぶおう)と名乗っていたのですが、臣籍降下により源姓を賜った結果
源雅信と改名し、宇多源氏を創始したのです
因みに、彼の同母弟の重信(しげのぶ)も同時期に源姓を賜っており、兄弟は宇多源氏初代として廟堂に大きな地歩を築いていたのです
但し、賜姓源氏にとって泣き所だったのは、その拠り所が当時の帝との濃厚なミウチ関係以外にはなく、初代は最高で左右大臣や大納言等の議政官(ぎせいかん)に昇ることが出来ても、ミウチ関係が薄くなる二代目以降になると…
著しくその地位を低下させるという傾向があったのです
そして、その地位は後発の賜姓源氏に取って代わられるという、非常にシビアな現実があったのです
代々の官人としての基盤があった藤原氏でも、家によって浮き沈みが激しかった訳で、平安宮廷社会で生き残ることが…
如何に至難の業であったことが、ご理解頂けると思います
こうした先輩源氏の悲哀を熟知していた雅信も、自身が初代として始めた宇多源氏の未来に思いを巡らせると
その将来は決して安泰でないことを十分に認識していたのでしょう
宇多源氏の宮廷内における地位を、将来的にも維持するためには、何が必要か
雅信は考えを巡らしていたと推測されますが、その方策として考えたのが…
藤原北家が代々推進していた、娘を帝の後宮に入れて、それから生まれた孫の外戚として皇室との安定的なミウチ関係を築くことであった筈で
彼は嫡妻穆出生の二人の娘で、特に姉の倫子の後宮入内を望み、機会を窺っていたと思われます
『光る君へ』劇中で、益岡徹(ますおかとおる)さん演じる雅信は、『娘を出世の道具には使わない』と穆子や倫子の前でも
宣伝していたのですが、史実はそんな甘いものではなく
寧ろ入内を画策していたと考えるのが自然ですね
しかしながら…
雅信の思惑通りに、政局は容易に進展しなかったのです
続きは次回に致します