さてさて…
『光る君へ』、前回と前々回の放送で、公卿達(くぎょうたち)の会議である『陣定』(じんのさだめ)の場面がありました
本日は、この陣定について、お話致します
先ず、陣定とは何かと言いますと
平安時代中期、則ち摂関政治の時代に始まった、定例の公卿会議で、宮中の警護を担当した近衛府(このえふ・左右二つ)の陣で開催されました
公卿達の待機場所となっていた席が近衛陣(このえじん)で、定刻となったら、太政官(だじょうかん)の役所である
宣陽殿(せんようでん)に移動して会議が行われていました
平安時代前期までは、宣陽殿が陣定の会場で、時には帝も臨席する御前定(ごぜんさだめ)も行われたのですが、徐々に帝が
陣座に臨席する機会も少なくなったのか、控えの間であった近衛陣にて会議が開かれる様になったのです
陣定で議論される主な内容は…
➀即位
②神事
③年中行事
④財政
⑤外交
⑥改元(元号)
⑦叙位(じょい)→位階(いかい)を授ける儀式
⑧除目(じもく)→官職を授ける儀式
⑨受領(ずりょう)任命
等々があったのですが、重要な政務・儀式・政策を決める定例会議と考えれば、理解の一助になると思われます
(尚、この他に、臨時や緊急の重要事案がある場合に行われる会議形態もありました)
この陣定に出席できる公卿とは、三位以上(例外で四位)の貴族、則ち上級貴族のことで、文字を分けて考えますと
➀公(こう)→大臣を指す。太政大臣(だじょうだいじん)・左大臣(さだいじん)・右大臣(うだいじん)・内大臣(ないだいじん)
③卿(きょう)→三位以上の貴人(大納言:だいなごん、中納言:ちゅうなごん)や、四位の参議(さんぎ)を指す。
上記の要領となり、件の枢機を議論する場に参加出来る公卿達のことを、議政官(ぎせいかん)とも呼びます
因みに、平安中期の公卿定員は、概ね十五~十八人位で、後年徐々に増員されることになるのです
さて、この会議の進め方ですが、『光る君へ』できちんと描かれていたので、気が付かれた方も多いかと思われますが
➀陣定の議事進行役である上卿(しょうけい)が議題を発表
②これについて、下位の公卿から、順番に意見を陳述する
③全員が意見を披露したら、多数決や全会一致で結論を決めることはなく、参加者全員が述べた意見(賛成・反対含めて)を
参議が文書(議事録に相当)に纏める
④上記の文書を蔵人(くろうど)が、帝と摂政(せっしょう)又は関白(かんぱく)に上奏(じょうそう)・奏聞(そうもん)される
⑤天皇と摂関が決裁する
概ね、上記の如くの意思決定がなされるのですが…
➀帝が幼い時は、政務代行者である摂政が帝に代わって決裁を行う
②帝が政務を見れる年齢であったら、帝が決裁を行うが、その場合、関白は帝の決済にアドバイスを与える補佐役的な立場となる
③関白も意見を述べるが、帝は必ずしも関白の意見に従うことはない
という風な具合で、摂政・関白によって、陣定における関与度が変ることがポイントですね
ところで、『光る君へ』で描かれていた陣定の場で、進行役の上卿(しょうけい)を務めていたのが…
左大臣の源雅信(みなもとのまさのぶ)でしたが…
この席に、何故関白太政大臣(かんぱくだじょうだいじん)である、小野宮流頼忠(おののみやよりただ)が陣定に出席していなかったか
疑問に思われた方もいらっしゃるでしょう
この辺りの事情は、聊か複雑なのですが、関白の役職は太政官の官職ではなく、後から設置された特別な官職でした
因みに摂政も同じなのですが、太政官の官職でない以上…
『同役所で行われる会議に参加する資格がない』と見なされる訳です
一方の太政大臣は、その名前の通り、太政官における最高官職であり、当然ながら現職の太政大臣は陣定に参加する資格も
義務もあるのです
そうなりますと、関白太政大臣である頼忠は、一方では陣定に参加出来る、一方では陣定に参加出来ないという、役職を兼任していることになるのですが
タケ海舟の説としては
聊か曖昧ながらも、この時期において、天皇の補佐役である関白職の役割を優先する考え方があったと思われます
もし仮に、この頃の頼忠が帯びていた官位が、太政大臣オンリーであったならば
政務を執行する最高機関である太政官筆頭大臣として、陣定を牽引しなければならないのですが、件の太政大臣は…
➀帝の師に相応しい人物を以って、これに任ずる
②適任者がいなければ、空席とする
という則闕(そっけつ)の官であったので、不在の場合も少なくなく、その場合は…
太政官常置の大臣職筆頭である左大臣が、政務を牽引することになっていました
(左大臣に支障があった場合は右大臣)
したがって、頼忠は帝の補佐役である関白の職務に専念
陣定の上卿を(左大臣の)源雅信に任せて、自身は会議に出席しなかったと思われます
因みに、この当時、花山帝(かざんてい)側近の参議義懐(さんぎよしかね)達と対立していた頼忠は、関白の職責を果たすことが困難になっており…
それ故、政務・儀式にも欠席を続けるという有様だったので、必然的に
花山帝とは特に利害関係のなかった雅信が、太政官の政務を執行していたのかもしれませんね
尚、頼忠以上に花山と対立関係にあった、右大臣兼家(うだいじんかねいえ)に至っては、言うまでもないですね
本日はここまでに致します