関ヶ原への道⑦(人質の危機を迎えていた光と栄姫) | タケ海舟の歴史事件帳

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上坂命令を拒絶した上杉家を討伐するため

家康は諸将に対して、会津征伐の動員令を発しました

会津征討軍が上方を留守にすれば、反家康で結束する石田三成達が決起することは間違いなく、いわば家康は自身に対する抵抗勢力の掃討を期して、敢えて大坂・伏見に隙を作ったと思われます

勿論、三成も家康のそうした意図を読んでいたと考えられますが

『徳川打倒の兵を挙げる機会はこの時以外にはない』と判断家康率いる豊臣軍が東下したのを受け、佐和山城を出陣、あらかじめ気脈を通じていた三奉行(増田長盛・長束正家・前田玄以)の招きにより、大坂入城を果たしたのです

ところで、三成の刎頸の友として知られる大谷吉継(おおたによしつぐ)は、決起の準備をしていた三成を佐和山に訪ね

①家康会津征伐は、明らかに三成の挙兵を誘うための罠であるここは軽挙妄動を慎み、事態の好転を待つべきである

②来年還暦を迎える家康に残された寿命は、それほど長くはない筈だ

(この見込みは外れ、家康は75年の長寿を保つことになるのですが…)

③たとえ、一旦は家康が天下の主導権を掌握しても、秀頼君は今尚ご健在であり、内府(家康)も、故太閤殿下の忘れ形見を蔑ろにすることはできないだろう

④貴殿(三成)はまだ四十路に過ぎず、時機の到来(即ち家康の死)に備え、力を蓄えることを優先すべきだ

と、この局面での決起を思い止まるよう、説得を試みたのですが、三成は親友の勧告を受け容れないばかりか、自分への協力を吉継に要請したのです

一旦は要請を断った吉継ですが、莫逆の友である三成を見棄てることは出来ず、遂に死を覚悟して三成の側に参じたのです

さて、大坂に入った三成は、城内西の丸に駐留していた徳川の留守居を追い出すと共に、家康の上方のおける今ひとつの拠点である伏見城を攻撃すべく、諸将との作戦協議に着手しました

伏見城には、家康の駿府人質時代より身辺に仕えていた鳥居元忠(とりいもとただ)を守将とする二千余りの兵が防備を固めていました

安国寺恵瓊の働きかけによって、総大将格として大坂城に入った毛利輝元の命の下、三成陣営(西軍)は城の明け渡しを迫ったのですが、守将元忠はこれを拒絶かくして、関ヶ原合戦のプロローグとなる伏見城攻防戦の火ぶたが切って落とされたのです

伏見城攻略と並行して、三成は家康に従って会津征伐に出陣した東軍諸将の離反を促すべく、ある作戦を実行に移そうとしていました

それは、大坂にいる東軍諸将の妻子に大坂への入城を強要するというものでした

即ち妻子を人質として、大阪城内に拘束することによって、家康に味方している諸将の動向を牽制併せて東軍からの離脱を惹起させようと目論んだのです

但し、会津方面への出陣の隙を衝き、三成がこのような策を取ることは、十分予測されており、各大名家では、それぞれにおける危機管理対応を準備していたと思われます

黒田家では、当主長政が会津征伐に赴くことになっていたのですが、出陣に先立ち長政は

大坂の天満屋敷にいる、生母光正室栄姫(えいひめ)を守護するため、家老の栗山善助母里多兵衛を留守居として配置するという対策を取っていました

さらに長政は、母と妻に関する件で、両名に以下の如く、指示を与えていました

①もし、三成方が母と妻を『大坂城に入城させよ』と強要してきた場合、断じて二人を人質として差し出してはならない

②その際は、何としても万難を排して、二人を父如水のいる豊前中津に落とすべく、方策を考えよ

③万が一、逃すことが不可能という事態に陥った場合、母と妻を刺殺して、そなた達も自害せよ

仮に如水・長政の正室二人が大坂方の手に落ちれば、黒田家はこれから始まる戦に向けて、東軍陣営に留まることは極めて困難となる事態が想定されていました

会津征伐直前という緊迫した状況の中で、正室糸姫を離縁家康養女栄姫を新たな正室に迎えてまで、親徳川への態度表明を断行した長政にすれば…

母と新妻が人質になるという、最悪の事態だけは回避したかった筈で、そのためには

『二人を死なせることも致し方がない』という非情の決断も視野に入れていたのかもしれません

但し、黒田父子が最も信頼している三家老のうち、善助と多兵衛の両名が付き添っていた事実から鑑みると、おそらく二人は中津にいる如水と連絡を取り合い、有事の緊急避難計画を練っていたことは論を俟たないと思われます

しかし、予想に反して、事態は黒田家側の思惑通りには推移しなかったのです

続きは次回に致します(-^□^-)



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