降伏勧告拒絶の真意は?(村重の胸中) | タケ海舟の歴史事件帳

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人質として有岡城に監禁されていた一族の命を考慮せずに…

荒木村重信長からの降伏勧告を拒絶したのですが、この極限状況に置かれた彼の思考の中で、降伏の選択肢はなかったのでしょうか

そもそも、村重が謀反に踏み切った理由は経緯については、不明瞭な部分が多いのですが、一説によると

村重の支配地であった摂津国には、一向宗の総本山である石山本願寺がばん居していた事が、彼の思慮に制約を与えていたのかもしれないとタケ海舟は考えています

本願寺お膝元という特殊事情もあり、他国に比べて一向宗門徒の人数が多く、その教義は百姓、町人は勿論、武士の間にも広く広まっていました

本願寺を支える武力の中核は、上記の様な在地武士(国人)が担っており、紀州雑賀の傭兵集団等と連携して、巧妙な鉄砲戦術を駆使して、数に勝る織田軍と互角に渡り合っていました

信長からこの統治の困難な摂津を任せられた村重は、与力でキリシタンでもあった高槻城主の高山友照(たかやまともてる)・右近(うこん)父子を使って、同国にキリシタンの布教させる事で、相対的に一向宗門徒の数を減らそうと画策を試みたのですが、短期間での効果は望むべくもありませんでした

周知の通り、摂津国人の中にも一向宗に心を寄せる者が多く、信長の代官として同国を支配を任せられていた村重の家臣団の中にも、信者は相当数存在していたのです

石山本願寺攻防戦は、親兄弟・係累達が敵味方に分かれて戦わなければならない修羅場でもあったのですが、そうした中で四方を十重二十重に囲まれていた石山に兵糧を運び込もうとする利敵行為が起きても、決して不自然な事では無かったと思われます

自らの家中(与力の中川清秀の家来という説もありますが…)が兵糧を送っていた…

という嫌疑を信長から突きつけられた時、当初村重は身の潔白を証明すべく、安土城に出頭しようとしました

それを半ば強引に引き止め、謀叛へと方針を転換させたのが、件の中川清秀であったといわれているのですが、この張本人ともいうべきの扇動者は、信長の荒木摂津進攻が開始される前に、いち早く村重から離れ、織田方に帰順してしまったのです

同じ離反でも高山右近の場合は、キリシタン信者の生命を盾にされた上での、強制的な降伏勧告であり、ある意味やむを得ない決断であったのですが、清秀のケースはいくら裏切りが戦国の習いとはいっても、道義的には批判が噴出して当然であると断言出来ます

いわば村重は、二階に上げられて梯子を外された様な立場に追い込まれてしまったのですが、事ここに至っては、本願寺や毛利・別所等との同盟を結んだ後であり、最早退く事は不可能でした

但し、かくの如くの抗戦に村重が踏み切るしかなかった今一つの背景には…

自らの家中に、本願寺門徒が多くおり、彼らが織田との戦いを断固主張主人に強要したという可能性が、極めて高いのではないか

という仮説も成り立つ余地があると思われます

『ただちに信長と袂を分かたなければ、我らはあなた様を有岡城から追放し、別の主人を迎えまする』という最後通牒を突きつけられたとしたら

一代で摂津一国の主になってしまい、譜代の臣を育成する時間など全くなかった村重は

進退ここに極まる…という苦境に立たされた事は間違いなく、不本意ながら信長に叛旗を翻すより他に、国持大名の地位を維持する方法がなかったという見方も出来るのかもしれませんね

『軍師官兵衛』では高山右近の影響を受け、キリシタンになっていた村重の妻だしも、数少ない史料等によれば、石山本願寺の法主顕如(けんにょ)の有力側近の縁者であったという説があり、これが事実としたら、親本願寺・反織田を叫ぶ勢力が、彼女の周囲に集まっていた訳で、彼女のコネクションを通じて、村重と本願寺は軍事同盟を締結した可能性も一考すべきなのかもしれません

信長の有岡攻めの方針が、長期に及ぶ攻囲戦となった段階で、毛利援軍到着の見通しが立たない村重は、徐々に苦しい状況に追い込まれていました

戦局打開を目指して選んだ起死回生の一手が、総大将自らが城を脱出毛利への援軍要請であったのですが、支城のひとつであった尼崎城に移ったのみで、その戦略構想は完全に頓挫してしまいました

大将不在で内応者が出始めた有岡城は、織田軍の攻撃を受け開城したのですが、中長期的な戦略眼に則った信長の予想外の譲歩により…

『村重が降伏し、尼崎・花隈両城を明け渡すのならば、有岡城の荒木一族や城兵達の命は助ける』という、相当寛大な降伏条件が提示されたのです

有岡城を預かっていた城将達が、降伏勧告の使者として尼崎城の村重の許を訪れたのですが、ご存知の様に、村重は彼等との面談を拒み、鉄砲を打ちかけて追い払ってしまったのです

推測を逞しくするならば、尼崎城には有岡城の一隅に閉じ込められている人質の縁者も多かったと思われますが、一方で

信長との徹底抗戦を叫ぶ者達も少なからず存在したと考えられます

尼崎や花隈は播磨やその先の毛利領(但し、最前線を預かる同盟者の宇喜多直家は、この頃織田へ寝返る寸前でしたが…)に近く、城内の兵力は荒木家中ばかりではなく、本願寺勢力や毛利からの援軍(義勇軍的な)等の独立混成的な軍団で構成されていたのが実情だったと思われます

これでは、仮に村重が一族の無事を考慮して城の明け渡しを望んでも、利害関係のない上記の陣営に属する彼らがそれに同意する筈がなく、村重が自分の意思で降伏を決断する事が出来なかったのかもしれません…

有岡城が落ち、摂津国内の村重の勢威は地に堕ちており、最早事態は村重一人の思惑を大きく超えてしまい、彼の指導力は著しく低下していたのでしょう

主君説得に訪れた荒井久左衛門を筆頭とする有岡城将は、こうした状況に絶望更にわが身可愛さの為か、有岡城に残した人質を見棄てて逃亡してしまったのです

当然尼崎城内の荒木家中も、村重の決断に反感を持った輩も多くいたとみられ、とても士気の一本化が図れないと判断した村重は、ここでの抗戦も断念最後の拠点である花隈城に逃れたのです

そして、有岡城に幽閉されていた荒木一族には、凄惨な運命が待ち構えていたのです…

続きは次回に致します(*^ー^)ノ




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