織田と毛利!両家の関係前史 | タケ海舟の歴史事件帳

タケ海舟の歴史事件帳

自称歴メンことタケ海舟が、歴史上の事件を独自の視点と勝手な思い込みで取り上げ、真相に迫ります。
大河ドラマを中心に歴史に関する話題をお届けします。

安芸国(現広島県一部)の一国人勢力に過ぎなかった毛利家を、一代で中国10ヶ国の太守にまで躍進させたのはグッド!


三本の矢の逸話で知られ、別名『謀略の天才』とも呼ばれた、元就(もとなり)でしたグッド!


当時の中国地方は、山陽の大内氏山陰の尼子氏の二大勢力が並立しており、毛利の領地のあった安芸国は、両陣営の草刈場と化していましたドクロ


その中から、次第に台頭してきた毛利元就は、50歳半ばで、家督を長男隆元(たかもと)に譲り、引退を表明したのですが、それはあくまでも表向きに過ぎず、寧ろこの後より元就の謀才は冴えを見せるのですNEW


①次男元春(もとはる)・三男隆景(たかかげ)を、それぞれ安芸の有力国人であった吉川(きっかわ)・小早川(こばやかわ)両家へ養子に送り込み、事実上安芸国の盟主的地位を獲得する注意


大内義隆(おおうちよしたか)を弑逆し、主家を簒奪した陶晴賢(すえはるかた)を、厳島(いつくしま)合戦で屠るグー


③晴賢の敗死で動揺した大内家の領内に侵攻ビックリマーク同家を滅亡させ、その領土を併呑する!!


④山陰の雄尼子氏の本拠地である月山富田城(がっさんとだじょう)を、3年余に及ぶ攻囲戦で、陥落させ中国地方を毛利の旗の下、切り従える事に成功するチョキ


これらの偉業を、元就は当主の座を降りてから成し遂げたのですが、並行して当主隆元を大殿(前当主)という立場から彼を指導・後見しつつ、万機の実権を堅持していた訳で、元就の人生は50歳を過ぎてから大いに道が開けたといえますニコニコ


ただ、60歳半ばを過ぎた時、隆元に先立たれるという不運に見舞われたのですが、新たに孫輝元(てるもと。隆元遺児)を、元春・隆景の二子と共に支える体制を構築ビックリマーク当主急逝の危機を何とか乗り切る事ができたのです目


その後、毛利は北九州にも進出クラブ同地方に君臨する大友宗麟(おおともそうりん)筑前・豊前(現大分・福岡両県の一部)各地を戦場に、干戈を交えました注意


両氏の戦いは、北九州最大の商業都市である博多の帰趨を巡る抗争でもあったのですが、不利な状況に陥っていた大友氏は、毛利の為に亡国の憂き目を見ていた、大内・尼子の残党を支援ビックリマーク彼等の復権活動を支援する、後方撹乱の戦術に討って出ましたガーン


特に、後者の尼子遺臣の代表であった山中鹿之助(やまなかしかのすけ)は、既に仏門に入っていた尼子家の若者を還俗させ、主家再興の宿願を果たすべく、故地出雲に討ち入ったのですパンチ!


(因みに擁立されたこの男子が、尼子勝久《あまごかつひさ》ですNEW


尼子残党の反乱は、一時侮れない勢力にまで発展したのですが、毛利の山陰方面責任者を務める吉川広家の奮戦により、尼子軍は敗退ビックリマーク主従は行方をくらましましたガーン



大友氏との戦いが膠着状態になった事を受け、毛利元就は京都の将軍足利義輝(あしかがよしてる)に和平の斡旋を依頼ビックリマーク九州方面における領土獲得の野心を一旦凍結する決断を下しましたガーン


一方で毛利は、国境を接していた備前浦上宗景(うらがみむねかげ)とも紛争を頻発させていましたガーン


宗景は浦上内部の主導権争いを勝ち抜く為、毛利との同盟を結び、備前国の支配権を獲得したのですが、実力を蓄えた宗景は毛利からの独立を策して、永禄6年(1563)に毛利に絶縁城を叩きつけたのですメラメラ


その後宗景は、九州の大友や旧領回復を目指す尼子勝久主従と連携して、毛利との対決姿勢を露にした為、対応に苦慮した元就は、15代将軍義昭を奉じて、畿内の支配権を掌握していた織田信長と音信を交わしグッド!


『尼子勝久と浦上宗景の動きを牽制して貰いたい!!と懇願しましたグッド!


元就の要請に応じた信長は、畿内・播磨両国の配下の武将を尼子・浦上攻撃に差し向けた為、毛利の当面の懸案は、一先ず回避されたのですが、この永禄末年段階においては、織田・毛利との関係は…


頗る良好であったのです目


勿論、両家の分国が遠く隔てられており、直接の利害関係も無かったという理由もあったのですが、元就が死去した元亀2年(1571)を経て尚数年、両家の関係に軋轢は生じませんでしたDASH!


しかし、そうした関係に暗雲を立ち込ませる様な事態が、天正年間に入って続けて発生したのですNEW


①信長の計らいで、浦上宗景が備前・美作・播磨の3ヶ国領有の朱印状を与えられるチョキ


②再三の旧領復帰運動を阻止されていた尼子勝久主従を、信長が支援する方針を決定するパー


尼子・浦上両氏は、何れも毛利との対立姿勢を崩していなかったのですが、独力では毛利と戦う事が困難という現状を鑑み、いよいよ名実共に天下人としての風格を備えつつあった信長の力を借りようビックリマークと画策を始めていました目


そして信長も、両氏の要請に応える形で、対毛利外交方針の見直しを始めたのですOK


続きは次回に致します(´0ノ`*)



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