実は私、タケ海舟…
何と、インフルエンザA型になってしまいました
先週木曜日から今週月曜日まで、完全隔離状態…
なんとか今日から職場復帰に漕ぎ着ける事が出来ました
インフルエンザになったのは、実に15年ぶりでしたが、熱も思った程、上がらずに終わり、やはり予防接種はやっておくべきだな
と認識した次第です
ナレーションが代わった『軍師官兵衛』の先週分放送は、リアルタイムでは視れなかったのですが、官兵衛前半の見せ場のひとつである、『御着会議』での大論陣が描写されていました
(因みに私は昨日、録画されていた映像を視聴しました)
さて、『御着会議』の話は、別の機会に譲るとして、本日は劇中でも採り上げられていた、木下藤吉郎秀吉の羽柴(はしば)姓襲名について、触れたいと思います
皆様の人口に膾炙されている通り、羽柴の二文字は、信長の代表的な譜代重臣であった
柴田勝家(しばたかついえ)と丹羽長秀(にわながひで)から、それぞれ一字を拝領した苗字であります
織田軍団の筆頭家老で、別名『鬼柴田』と恐れられていた勝家の武勇
『米の五郎左(こめのごろうざ)』と称され、織田家中において代替の効かない、思慮分別と慈悲深さを有していた長秀
織田家のハードとソフト両面を代表する先輩から、しっかりを一字ずつを頂き、先んじて城持ちとなった事に対する、彼等の反感を和らげようとする秀吉の対人関係における如才なさが理解できます
これだけ、ヨイショされれば…
たとえ普段は、『あの猿めが』と思っていても、勝家・長秀共々、決して悪い感情は懐かなかった筈で、更に、主君信長が許可したならば、元より異論等言えなかったと思われます
但し…
劇中では、勝家と長秀は
『織田家中の双璧』と評されていたのですが、実際、この天正元年(1573)当時の織田家の序列は、少しばかり、異なっていました
既に柴田勝家の地位は、揺るぎ無い物になっていたのですが、丹羽長秀については、信長の格別な信頼を得ていたとはいえ、軍事指揮官としての実力と地位は、勝家のそれには遠く及びませんでした
どちらかといえば、長秀は軍事面よりは、民政・建築土木事業に、その才覚を発揮した人物でした
特に、天下人信長の居城であった安土城の、築城総責任者を務めたのが、何を隠そう、この長秀でありました
この他には、信長の大切な客人の接待役も、頻繁に務めており、信長にとって、長秀は
何でもそつ無く上手にこなす、手堅くて信頼出来る奴だったと思われます
戦時の折、長秀は大軍団を率いる事は少なく、主に方面軍(勝家・明智光秀・秀吉達が軍団長を務めた)の援軍である、遊撃軍の司令官としての役割を課せられていました
若しくは、信長の命令を前線部隊に周知徹底させる、または、戦況を信長に報告する役目を担う、軍目付(いくさめつけ)的な位置付けが、彼の指定席であったといえます
こうして見ると、築城が得意で且つ、軍目付を務める務める所等、何かと黒田官兵衛と類似した部分を持っていますね
さて
秀吉が新たに羽柴姓を襲名した時の、織田家双璧の今一人は、同じく織田家譜代衆の佐久間信盛(さくまのぶもり)でした
『軍師官兵衛』にも登場していますが、信盛は柴田勝家同様、尾張時代から信長の重臣として、その天下統一事業を支えた重要人物でした
彼には、『退き佐久間』という別名があったのですが、これは唯、逃げ足が早かったという訳ではなく、戦において、最も困難とされていた退却戦(即ち、殿《しんがり》の役目を、巧妙にこなす戦上手であったが故に、付けられた物でした
したがって
攻撃戦が得意な柴田勝家
退却戦が得意な佐久間信盛
という、誠に対照的な戦振りを得意とする、尾張以来の譜代衆が、この時の織田家の二大重臣であったのです
特に佐久間の方は、この後、畿内における反信長陣営最後の牙城であった、摂津国石山本願寺担当の方面軍司令官に任命され、同地域の殆ど全ての軍団を、その指揮下に収める事になるのです
そして…
信長より摂津一国を任せられ、本願寺攻撃も任せられていた荒木村重(あらきむらしげ)も、新設された近畿方面軍団の指揮下に編入される形となったのですが、この事が村重の織田家における立場を
微妙な物にしたとも言われています
本日はここまでにします(*^▽^*)
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