官兵衛と光は、結婚以来42年間に及ぶ激動の時代を、二人三脚で乗り切ったのですが、その秘訣とは
と改めて考えてみると、答えを出すのが案外難しい事が分かります
和歌や連歌等、夫婦共通の趣味や嗜みを通じて、お互いに心の交流が出来たというのも、一つの理由として挙げても良いと思いますが、タケ海舟は
『官兵衛が自分の考え方や信条を、決して光に押し付けようとはしなかった』
という所が、夫婦円満の大きな要因であったと考えています
その代表的な例が
『光が夫に随い、キリスト教に改宗しなかった』とする事実でありました
ご存知の様に、官兵衛は天正10年以降と思われる時期に、キリスト教の教えに共鳴洗礼を受けました
彼を信仰の世界に誘った人物は、一般には高山右近(たかやまうこん)であるといわれていますが、実際の所は、あまり詳らかではないみたいです
堺の商人出身で、後に文禄・慶長の役で、加藤清正(かとうきよまさ)と共に、日本軍の先鋒を務めた小西行長(こにしゆきなが)や、信長の娘を妻に迎えていた蒲生氏郷(がもううじさと)等、既に洗礼を受けていた先輩キリシタン大名の熱心な勧めがあったものと考えられますが、官兵衛は戦乱に明け暮れる時代を平穏な姿に戻す為には…
『強力な軍事力や統治機構ばかりに依存するのではなく、人民(支配・被支配何れの階級・階層問わず)の心に安らぎを与えられる教義やイデオロギーが不可欠である』
と考えていたのかもしれません
彼が生まれ育った播磨国は、畿内・京都に近く、しかも南蛮貿易で富み栄え、会合衆(えごうしゅう)の自治で運営されていた、先進都市堺にも、比較的容易に足を伸ばす事が可能でした
織田信長の圧力によって、堺は彼への従属を余儀なくされていたのですが、依然として畿内随一の商業貿易町としての地位を維持していました
官兵衛も、織田陣営参入交渉の下準備等で、主君小寺政職に従って上洛した事もあり、その最中に堺にも足を運んだと思われます
京都や堺では、既にイエズス会の宣教師が、足利将軍や信長の許可を得て、同地における布教活動を始めており、元来、法華宗が強い地盤であったにもかかわらず、徐々にキリシタンに改宗する人々が増えていたのです
イエズス会は…
『支配者階級である将軍や大名をまずキリシタンに改宗させる事によって、彼等が治める領地や人民の円滑なキリシタン化が可能になる』
と目論んでいました
既に九州地方の有力戦国大名大友宗麟(おおともそうりん)が、洗礼を受けており、彼が支配していた博多の町には、教会等のキリスト教施設が立ち並んでいました
この結果に倣い、日本の権威や政治の中心である京都や、産業貿易のそれである堺を、キリシタン布教の一大拠点にしてしまおう
それが、イエズス会の考えていた戦略であったのです
足利義昭を奉じて上洛して来た織田信長は、南蛮諸国との貿易にかなりの興味を示し、かの国の文化や技術を積極的に進取する考えを有していました
同時に、次第に反対勢力になりつつあった仏教勢力(特に比叡山延暦寺や石山本願寺)に対する牽制の意味を含め、宣教師達が望む布教の許可を与えたのです
キリストの教えは、信長配下の武将達にも広がり、先掲の高山右近や蒲生氏郷は、率先してキリシタンの洗礼を受けるに至ったのです
戦いに明け暮れる武将達にとって、正義の戦いを肯定するイエズス会の教義は、大いに受け入れられる物であったのかもしれませんが、命をやり取りをする戦場往来の殺伐した日常の中での心の安寧を、異国伝来の宗教に見出したのかもしれません
おそらく官兵衛も、自身が幽閉される事態となった有岡城での出来事や、三木城や鳥取城での兵糧攻め等の、悲惨な戦場での経験を通じて、戦乱のない真の恒久平和への道を望んだ筈で…
『キリストの教義にその要諦がある』
と考えていたのかもしれません
こうして、洗礼を受けた官兵衛は、『ドン・シメオン』というクリスチャン名を与えられ、名実共にキリシタン大名の列に加わりました
さらに彼は、弟達やわが子長政にも、キリシタンの教えに触れる事を勧めたみたいで、彼等もまた洗礼を受けたのです
因みに彼らのクリスチャン名は…
①長政→ダミアン
②官兵衛の同母弟利高(としたか)→残念ながら不明
③官兵衛異母弟の直之(なおゆき)→パウロ
であるのですが、豊臣秀吉の禁教令に際し、官兵衛はじめ黒田家の面々は、割合あっさりと信仰を棄て
ています…
(但し、あくまでも表向きであり、その後も黒田家やその領内ではキリシタンの教えが遵守され、信者も保護されていたみたいです官兵衛の意図が見え隠れしますね)
さて
長政や弟達にも、キリシタン改宗を勧めた官兵衛ですから、最愛の妻である光にも…
『一度、教会に一緒に行って、宣教師の説教を聞いてみないか』
くらいの話は持ちかけたと考えられます
しかし光は、生涯キリシタンに改宗する事はありませんでした
何故なら、彼女の実家櫛橋家は…
代々浄土宗を信仰しており、光自身も熱心な信者であったからです
但し、宗教の面で見解を異にしたとはいえ、この事が原因で、黒田夫妻の間で諍い等は一切生じなかったのです
続きは次回に致します(*^▽^*)
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