前回、職隆・信長そして、官兵衛が、偶然とはいえ、43歳というまだ余力を残した年齢で、息子に家督を譲っているという話をさせて頂きました
何れも、父→息子という当主交代のケースなのですが、比較的早期に事業継承へ踏切る事によって、次世代への権限委譲の円滑化を図ったのではないかと思われます
戦国時代という、他の時代とは比べ物にならない位、シピアな環境の中、戦いに明け暮れる日々を過ごしていた戦国武将達の究極の使命は…
如何にして、我が家を後々まで存続させるか
の一点に集約されていました
よく、戦国武将の誰もが、上洛して、天下を平定する(即ち天下人になる)事を、その至上の命題にしていると、考えられがちなのですが、天下取りを企図していたのは、ほんの一部ばかりで、大多数の大名達は…
我が家が、未来永劫存続する為の…
生き残りゲームに勝ち残る事に、自身のヒト・モノ・カネを集中させていたのです
①人材発掘(教育)(ヒト)
②武器や堅固な城(モノ)
③米や商業経済力(カネ)
上記がそれぞれの具体的な手段であるのですが、件の富国強兵策と並行して、戦国武将が最も意を配らなければならない事は…
『自分の血と汗と涙で、手に入れた領国を、血を分けたわが子(若しくは孫)に継承させたい』
という想いに裏打ちされた、後継者教育(事業承継)でありました
但し、平時とは違い戦国期は、乱世という戦時体制が、常時続いていた訳ですので、それだけ後継者教育には、用意周到且つ綿密な準備と過程が求められたのです
そうした後継者教育の必要性を逆算して、考え出されたのが
当主がまだまだ力を残した段階での、後継者への家督譲渡システムだったのです
現在と違って、医療衛生が進んでいなかった昔、人の寿命は大変短い物でした
織田信長が、『人間50年』で始まる『敦盛』(あつもり)を好み、よく舞い、歌っていた事は、知られているのですが、当時は…
『50年も生きられれば、大往生である』と思われていました
戦国時代においても、その様な観念が支配していたので、父親である戦国武将は…
『平均寿命50年』(あくまでも目安ですが)を想定して、40歳前半に家督を息子に譲り、自らは大殿(おおとの)(前当主の呼称については、家によって異なりますが…)という一歩下がった場所から、息子(後継者)を後見・指導する教育システムを、選択したのでしょう
こうした方法を採用すれば、ある程度の期間をかけて、息子を実地教育する事が可能で、教育過程で息子の適性や見極めつつ、それに合わせた家中(家臣団)による支援体制を、同時進行で構築出来るというメリットも見込まれたのです
また戦国大名の事業承継過程の特長として…
領国支配のいろいろな権限を、父(前当主)と息子(現当主)で分担する方法が、随分散見出来ます
たとえば、父は近隣諸大名との外交を担当する一方で、息子は領内の支配(行政)や軍事指揮権を掌握する等の、実例があるのですが、新当主に一つずつステップを踏まえさせた上で、完全な権限委譲への道筋を就ける狙いがあったと推測されます
更に、領国支配の要諦である、家臣団政策に関しても、彼等の生活や待遇を保障する知行安堵状への署名が、父・子(新旧当主)連名になっているケースが多く、徐々に新当主単独の書状に移行するに至るまでの猶予期間を設けて、家臣に新体制への理解と協力を求めたのでしょう
こうしてみれば、意外なのですが、戦国時代程、後継者教育に、かなりの時間とエネルギーを費やしている時代は他に無く、既存の価値観が通じない故の、戦国大名の苦労を垣間見る事が出来ます
因みに、官兵衛や信長以外で、40歳頃で家督を息子に譲った戦国大名はといえば…
①今川義元(いまがわよしもと)→氏真(うじざね)
②伊達輝宗(だててるむね)→政宗(まさむね)
③北条氏康(ほうじょううじやす)→氏政(うじまさ)→氏直(うじなお)
など等が列挙できます(全てのケースが、お家安泰に起因した訳ではりませんが…)
反対に、死ぬまで後継者を決めなかった(若しくは決めていても生前に家督を譲らず…)大名で、著名な人物は…
①武田信玄
②上杉謙信
という、人気抜群の二大武将がいます
信玄の死後、10年にして武田家は滅亡
謙信の死後に勃発したのは、二人の養子が跡目を争った御館の乱(おたてのらん)でした
(この内戦で、上杉家の勢力はかなり衰退織田軍の脅威の下、あわや滅亡の一歩手前まで追い込まれたのです…)
こうして見ると、後継者選定並びにその教育というのは、組織の死命を制する重要な課題であり、現代に置換えても、正に同じ事がいえますね
そうした難しい状況で、黒田職隆→官兵衛→長政の後継者教育は、時流を捉えた適確な物であり、大成功と呼んで差し支えないと思われます
本日はここまでにします(*^▽^*)
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