羽柴秀吉の播磨方面軍司令官抜擢について | タケ海舟の歴史事件帳

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官兵衛の要請を受け、信長が播磨方面軍司令官として送り込んだ武将こそが…


羽柴秀吉でしたニコニコ


天正5年(1577)に秀吉は播磨入りを果たしたのですが、この頃より織田軍団は戦線の拡大という状況に対応する為、方面軍体制を導入していましたNEW


最初に編制された方面軍は、筆頭重臣柴田勝家(しばたかついえ)を司令官とする北陸方面軍でしたOK


天正元年(1873)に信長は越前朝倉氏を滅亡させたのですが、同国は『一揆持ちの国』といわれた加賀国(現石川県一部)と境を接しており、信長軍団の最大の敵と目された一向宗門徒との戦いの最前線でもありましたNG


一向宗門徒は越前国内にも多く群集しており、加賀国の友軍と連携して、新支配者たる織田勢力への支配に激しく抵抗した為、信長は天正3年(1575)に自ら大軍を率いて越前に入り…


徹底的なジェノサイド(戦国用語では撫で斬り《なでぎり》)作戦を敢行しましたNG


凄まじい大弾圧の結果、越前一向一揆勢力は根絶やしにされたのですが、乱後、信長がこの地の軍事支配を貫徹するべく、件の北陸方面軍を駐屯させたのです注意


方面軍司令官は、織田方随一の猛将(鬼柴田という異名もあります)柴田勝家!!


彼の軍事指揮下に入る与力(よりき)が、前田利家(まえだとしいえ)佐々成政(さっさなりまさ)でした!!


利家・成政は、何れも織田軍団新鋭隊である、赤母衣衆(あかほろしゅう)・黒母衣衆(くろほろしゅう)の筆頭でしたニコニコ


北陸方面軍の当面の任務は、北陸一向宗の牙城である加賀国侵攻であり、さらに同勢力討滅の先には…


越後の虎である上杉謙信(うえすぎけんしん)率いる、最強を誇る越後軍団との対決が控えていましたドクロ


既に最大の脅威であった武田信玄がこの世を去っており、信玄後継者の勝頼(かつより)長篠の合戦で、強かに打ちのめした信長にとって、当面の敵はあせる


畿内の石山本願寺と越後の上杉謙信でしたグー


因みに、中国地方の雄である毛利家は、この段階ではまだ信長との友好関係を維持していましたNEWしかし、彼によって追放された将軍足利義昭(あしかがよしあき)を備中鞆(とも)に迎えた時点で、毛利は信長との対決の意思を明確にするのです注意


謙信も永禄・元亀年間の頃迄は、信長と誼を通じていましたOK


しかし、信玄が病没ガーン武田家の脅威が激減した為、信長は次第に謙信に対する外交姿勢を強圧的な物へと変えていったのですパンチ!


対する謙信も、義昭追放等、一連の信長の強硬姿勢に強い憤りを有しており、天正年間を迎え…


信長vs謙信ドンッ


という戦国屈指の好カード実現の可能性が強まっていましたメラメラ


(結局、天正6年《1578》の謙信の急死で、両雄の直接対決は実現しませんでしたがショック!


謙信との主戦場は、北陸方面(加賀・能登・越中)である事が予測されたので、信長はこの方面に織田軍最精鋭である柴田勝家の軍団を配置したのです!!


ところで…


北陸以外の方面軍ははてなマークといいますと、既に湖南(こなん)(南近江)の坂本城を任せられていた明智光秀(あけちみつひで)が、丹波国(現京都・兵庫県一部)攻略を命じられ、方面軍編制に着手していましたが、その他は、別個の独立軍団を指揮するという状態に留まっていましたパー


(この後、畿内・中国・関東・四国と、続々と方面軍が新設されますグッド!


天正年間からの戦線の拡大は、信長をして方面軍制導入に踏切らせたのですが、その際、独立兵団を率いる遊撃軍の将は、休む間もなく、各戦線への救援に駆り出されていましたドクロ


近江浅井討滅戦に活躍ビックリマーク浅井旧領を与えられ、長浜城主となった羽柴秀吉もまた、その様な遊撃軍団長の一人でしたパンチ!


そうした中、北陸情勢が緊迫!!信長は織田軍団の有力武将を殆ど全て動員して、方面軍司令の柴田勝家の救援に向かわせたのです!!


ところが、加賀国侵攻した織田軍は、作戦方針を巡り、総大将勝家と援軍の将秀吉が対立ドクロ


憤然とした秀吉が、勝手に戦線離脱をしてしまう叫びという重大な問題が勃発したのですガーン


軍規違反を犯した秀吉の行動に、当然ながら信長は激怒メラメラあわや切腹叫び!?と誰もが予想したその時…


秀吉は大人しく謹慎するどころか、長浜城内で…


飲めやビックリマーク歌えやクラッカーの宴会を、連日連夜に亘って催したのです注意


謹慎していては、却って信長の猜疑心を惹起させる!!という秀吉なりの冷静な分析があったのですが、半ば開き直りの行動を取ってあせる


『全く信長様に対して、やましい所などこれっぽっちもありません音譜』という奇想天外な態度表明を行なったのが、逆に信長の心証を良くしたのかもしれませんNEW


そうした折、大和国信貴山(しきざん)城主の松永久秀(まつながひさひで)が、城に籠もって叛旗を翻した為、秀吉は謹慎を解かれ、久秀討伐への参陣を命じられたのですニコニコ


加賀の陣での失敗を不問とされた訳ですが、松永討伐に軍功を挙げ、汚名挽回を果たした秀吉に対して、信長出した次なる指令が…


毛利との係争地帯と化していた、播磨国の平定でしたチョキ


続きは次回に致します(・∀・)



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