タケ海舟の歴史事件帳

タケ海舟の歴史事件帳

自称歴メンことタケ海舟が、歴史上の事件を独自の視点と勝手な思い込みで取り上げ、真相に迫ります。
大河ドラマを中心に歴史に関する話題をお届けします。

 

 

さてさて…

 

東三条院詮子(ひがしさんじょういんせんし)の四十賀(しじゅうが)のお話の続きサーチ

 

云うまでも無く、祝賀儀式の公式な目的は、国母である彼女の宝算(ほうさん・長寿)と更なる健勝を願うことであったのですが注意

 

その隠された真の目的とは?

 

件の儀式が、道長(さだいじんみちなが)の本邸宅である土御門殿(つちみかどどの)で開催されたことがヒントになると

思われます拍手

 

女院名の由緒である東三条殿(ひがしさんじょうどの)前年末に焼亡していることもあったのですが、国母に関する慶事である

以上四角オレンジ

 

それは公式行事に相当する訳で、従って、政治や儀式の場である内裏で催されても不思議はなかったと云えますくちびる

 

但し、その内裏自体も、東三条殿焼亡の少し前に焼け落ちてしまっており、当時は一条院(いちじょういん)仮の内裏として

政務等が運営されていましたグッド!

 

因みに、一条院の伝領はサイコロ

 

➀道長父兼家(かねいえ)の父である師輔(もろすけ)→②師輔嫡男伊尹(これまさ)→③師輔男子為光(ためみつ)

 

上記の経緯で所有者が変遷しており為光(伊尹異母弟)が伊尹娘の婿になった時に、異母兄から一条院を譲られていました電球

 

そして、この一条院こそがメモ

 

➀中関白家(なかのかんぱくけ)の没落

 

②道長政権の確立

 

上記の事態をもたらした、長徳の変(ちょうとくのへん)勃発の舞台であったのですNEW

 

さて、既に忘れている方もおられるかはてなマークとも思われますが電話

 

為光の息子が、『光る君へ』で金田哲さんが演じている斉信(ただのぶ)で、彼の異母姉妹(生母は共に伊尹娘)が事件の原因に

なったのですが…丸ブルー

 

為光死後一条院は三女(三の君)が相続していたのです四角オレンジ

 

政変後まもなく、経済的な事情若しくは騒動の舞台となったことが憚られたのか?

 

三の君は八千石(米)と引き換えに一条院を手放したのですOK

 

一条院を購入したのが諸国の受領(ずりょう)を歴任していた佐伯公行(さえきのきんゆき)という人物だったのですが時計

 

彼の妻は、高階成忠(たかしなのなりただ)の娘光子(こうし)で、かの中関白道隆(なかのかんぱくみちたか)正妻であった

貴子(きし)の妹でもあったのですFREE

 

長徳の変で、中関白家が没落えーん 同家の外戚で羽振りが良かった高階氏面々も、その多くが事件に連座する中で…NG

 

成忠婿であった公行は国母詮子への接近を意図!

 

購入した一条院を詮子に献上したのです注意

 

因みに長徳四年(998)除目(じもく)の際、公行は詮子の口添えで播磨介(はりまのすけ)となっておりチョキ

 

件の一条院献上の返礼と推察されますドア

 

こうした経緯で、一条院は詮子の所有となったのですが、翌年の長保元年(999)六月十四日内裏が焼亡メラメラ

 

(一条朝になって初めての内裏焼失)

 

詮子の勧めもあったのか、内裏再建の間一条院が里内裏(仮の内裏)となったのですFREE

 

焼亡の翌年二年(1000)内裏は再建され、十一月十一日に一条帝(いちじょうてい)は還御(かんぎょ)したのですが…ダッシュ

 

還御から僅か一年(長保三年十一月十三日)で再び新造内裏が焼亡メラメラ一条は再び一条院に遷御(せんぎょ)する仕儀となったのですカギ

 

尚、再度の内裏再建は、二年度の長保五年(1003)に完了くちびる 同年三月四日に一条は還御したのですがもやもや

 

何と、二年後の寛弘(かんこう)二年(1005)十一月十五日に、またしても焼亡ドクロ

 

一条や中宮彰子(ちゅぐうしょうし)は、道長の邸宅である東三条院殿に暫時滞在の後、再度一条院に遷御したのですNG

 

同年中には、内裏は三度再建されたのですが、一条は還御したのかは不明で(還御したとも)そのまま一条院を内裏にしていたのですカメラ

 

ところで、一条は寛弘八年(1011)六月二十二日、一条院で崩御するのですが、彼の謚号(しごう)が一条となった背景にはうずまき

 

母詮子から提供された一条院を里内裏に滞在する期間が長かったこともあると思われますバイバイ

 

尚、参考ですが…

 

帝は生前、帝(みかど)、今上(きんじょう)、お上(おかみ)、主上(しゅじょう)と呼ばれていて、崩御後に公卿定(くぎょうさだめ)等により謚号が決定されるのが常であったのですが目

 

その帝が生前、里内裏(さとだいり)として住んでいた御所の名前が採られることが多かったみたいです電球

 

参考までに一条以外の例を列挙してみますとバイバイ

 

➀一条の父である円融帝(えんゆうてい)は、御願寺(ごがんじ)として円融寺(えんゆうじ)を建立

後にこの寺を院御所として居住したため、円融が謚号と定められたOK

 

②一条の従兄弟である花山(かざん)も、出家後の御所であった花山院(かざんいん)を謚号としています注意

 

③一条の伯父で花山や東宮居貞(とうぐういやさだ)の父である冷泉帝(れいぜいてい)も、院御所の冷泉院(れいぜいいん)を謚号指輪

 

上記の通りですが、後代の帝の謚号も住んでいた御所の名前から採用されるケースが、結構見受けられますねパー

 

少し、お話が逸れてしまいましたが…

 

一条院が仮の内裏であり、尚且つ本来の内裏が再建中という事情があったならばサイコロ

 

一条院で詮子の四十賀の宴を開催しても問題なかったと思われるのですがメモ

 

前述の通り、実際の四十賀の舞台は、道長の土御門殿となったのです注意

 

それは、道長自身の強い要望と政治的な意図に拠るものであったのですうずまき

 

続きは次回に致します上三角