この世の最上のわざは何?
楽しい心で年をとり、
働きたいけれども休み、
しゃべりたいけれども黙り、
失望しそうなときに希望し、
従順に、平静に、おのれの十字架をになう--。
若者が元気いっぱいで神の道をあゆむのを見ても、ねたまず、
人のために働くよりも、けんきょに人の世話になり、
弱って、もはや人のために役だたずとも、親切で柔和であること--。
老いの重荷は神の賜物。
古びた心に、これで最後のみがきをかける。まことのふるさとへ行くために--。
おのれをこの世につなぐくさりを少しずつはずしていくのは、真にえらい仕事--。
こうして何もできなくなれば、それをけんそんに承諾するのだ。
神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。それは祈りだ--。
手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。
愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために--。
すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。
「来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ」と--。

 

Hermann Heuvers

 

解 説

上智大学学長も務めたヘルマン・ホイヴェルス神父(1890-1977)が、ドイツに帰国後、南ドイツの友人から贈られた詩。

ヘルマン・ホイヴェルス(林幹雄 編)、『人生の秋に』(春秋社、1969年)

の307ページから310ページの「年をとるすべ」という随筆の中で紹介されています。この本は、現在版切れか絶版かもしれません。代わりに、土居健郎、森田明 編、『ホイヴェルス神父 日本人への贈り物』(春秋社、1996年)に、この詩が載せられています。

 

ホイヴェルス神父は、1890年ドイツに生まれ、1909年にイエズス会に入会、1920年司祭に叙階され、1923年来日。1937年から1941年まで上智大学の第2大学長を務められました。1967年に44年ぶりに故郷ドイツ訪問。この詩はこの時のものです。ホイヴェルス神父は、歌劇などにもすぐれた作品を残されました。

 

主な著作、劇作:

歌劇『細川ガラシア夫人』1940、著作『神への道』春秋社1948、能『復活のキリスト』1957、狂言『十字架』1957、著作『時の流れに』中央出版社1959、『キリストのことば』春秋社1963、歌舞伎『細川ガラシア夫人』1965。

 

 

引用:http://home.interlink.or.jp/~suno/yoshi/poetry/p_thebestact.htm

 

 

生命に反する事とは

 

この最たるは、故意や過失による殺人だとみなされる。

 

自殺や心身の不摂生で自ら死を招くのも同様にみなされる。

 

死に至らなくても、死にたい思いに至らせたり、至るのも

ほぼ同様にみなされるであろう。

 

しかし、人はいかなる言動や思いによっても死なない。

 

死は、生命の業だからだ。

 

死は、生命に反する事ではない。

 

生命に反する事とは、外にすがって生きる事だ。

 

誰も自分を良しと、しない。ならば、思い通りにさせてやる。

自分も自分を良しと、出来ない。ならば、自分を消してやる。

 

外へと逆噴射した内の力は、身を大地から引き剥がす。

外見に任せて漂う心草は、痛みが素通りする。

 

怒りが、凍てついた笑顔になる。

振り上げた拳が、空を斬って握手を求める。

 

見られたくないから、覗く。

知られたくないから、騙す。

 

あの。。。

内で生命が、微笑んでいるよ。

微笑み返すだけだよ。

諸悪莫作(しょあくまくさ) 衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)
(もろもろの悪いことをやめなさい。あらゆる善行に尽くしなさい。)

儒教の学者であった白居易(はっきょい)が、禅僧・鳥窠道林(ちょうかどうりん)にめぐり合いました。

白居易が「仏教とはどんなことが説かれているのか。一言で教えてほしい」と仏教の大意を問うたところ、鳥窠道林は上記のように答えました。

すると白居易は「そんなこと、3歳の幼児でも知るところだ」と不服を述べ、せせら笑いました。
すかさず鳥窠は
「3つの童子でも知っているが、80歳の老人でもそれを行なうことはできない」と答え、白居易を一喝したといいます。

引用:
https://japan-buddhism.com/2444.html