四十にして立つ ~1,000億円企業への道~ -18ページ目

四十にして立つ ~1,000億円企業への道~

40歳を前に突然起業しようと思い立った現役社長が、実際の出来事を通して、企業経営の楽しさや苦しさを発信中!!
「10年後に1,000億円」を公言して起業した僕が、いかにしてその目標を達成したかを描くリアル・サクセスストーリー

とうとう松本での最後の日を迎えることになった。


ここからの話は、僕が一番思い出したくない話です。
僕にとっては、「恥」以外の何ものでもない話だからです。
今回、この日のことを書くかどうかは、少し迷いましたが、やはり事実をそのまま書くべきだろう、と思い、書くことにします。
この話を見た方も、実際に会ったときにこの話には触れないでいただけると嬉しいです。


取締役退任(くび)が正式に決まってから、僕は引継ぎを淡々と進め、出向中にお世話になった人にあいさつに回った。
急な話にビックリして、

「え?そうなんですか?残念です」

という人もいれば、ある程度事情を知っているのか、複雑な反応を示す人もいた。

特に仲の良かったある方とは、夜に飲みながら話をした。

「これから一緒に本格的な改革をしようと思っていたのに、なぜこうなったんですか?」

と責められもしたが、詳しい事情を話せなかったので、歯がゆい思いをした。


そして、最後の日。

僕は、担当していた温泉付ホテルで従業員に向かって最後の挨拶をすることになった。

このホテルは、僕が一番多く時間を過ごしたホテルで、150名程いる従業員のほぼ全員が顔見知り。僕にとって最も思い入れの強いホテルだった。

毎朝の朝礼で、僕は従業員に向かって毎日スピーチをしていたので、話すこと自体には慣れていた。話すことも事前に考えていたので、いつも通り話すだけだと思っていた。

「このたびは、取締役に就任したばかりですが、取締役を退任することとなりました。」

話し始めて少し経つと異変が起きてきた。
話しながらも、途中でリタイヤしなければならない悔しさと目の前にいる人たちへの申し訳なさの気持ちが、急にあふれてきたのだ。
そうすると、自分でもビックリしたのだが、自然と涙があふれてきた。

念のために言っておきますが、僕は決して涙もろいほうではない。
どんないい映画を見ても泣いたことがないし、自分の結婚式、娘の誕生、自動車の盗難の時でも、もちろん嬉しい思いや悔しい思いはするのだが、涙がでたことはない。
20歳になってから人前で泣いた記憶があるのは、大学3回生の時にアメフトで初めてリーグ優勝した瞬間くらいかな。
だから、僕はちょっとやそっとのことじゃ泣くことはない人間だと思っていた。

そんな僕が、大勢の人のいる前で泣いたのだ。
30歳半ばにもなって泣いたのだ。
それも、最初はポロリと流れるくらいだったのだが、だんだんと大粒の涙になり、最後のほうには泣きじゃくってほとんどしゃべれない状態にまでなっていた。

だから、挨拶の後半で何をしゃべったのか、全く記憶にない。
予定した通りのことをしゃべったのかもわからない。
挨拶がおわると、号泣した状態で部屋から抜け出した。

それから、ホテルの隅の方の人が来ないようなところに行って、一人でじっとしていた。
しばらくすると、落ち着いて、涙も止まった。

冷静になってくると、

(なんて恥ずかしい真似をしたんだろう)

とものすごく恥ずかしくなってきた。


するとそこに僕が一番親しくしていたホテルの女将さんがやってきた。

僕としては気まずい思いでいると、女将さんから、

「黒田さんは、よくやってくれていたと思いますよ。本当に感謝しています。

 でも、黒田さんがいなくなって、私は一人でどうしたらいいかわからないです。」


と、言われた。
その瞬間、さっきと同じような気持ちが舞い戻ってきて、また泣き出してしまった。

「すいません、すいません」

と、泣きじゃくりながら言うしかなかった。


こうして、僕の最後の日は、泣いてばかりの一日になった。
その日のうちに、僕はKさん、Mさんとも一応挨拶を交わした。
Kさんとは、

「お世話になりました」「頑張ってください」

と、お互い気持ちのこもらぬ、形だけの挨拶で終わった。

Mさんからは、

「黒田さんがいなくなると、私の負担が大きくなりすぎて、本当に困っています」

と言われたが、これは本音だったと思う。
(ちなみにMさんは最後にKさん・前社長が行なった「黒田降ろし」の動きには、全く関与していないようだった)

これで僕の松本での話は終わりである。

余談ではあるが、色々言われて、無理やり借りることになったワンルームマンション。
結局、たったの一日も泊まることがなかった。
その後どうしたのかは、まったく知らない。


◆僕の教訓
本気になったことで失敗すると、泣くくらい悔しい思いをすることもある。
ただ、人前で号泣することだけは、2度としたくない。
最後通告は、突然やってきた。


取締役に就任してから約3週間、Kさん、Mさんからは恐ろしいほど何も言われなかった。

(ああ、心配していたほど、Kさんも気にしてなかったんだ。)

と、ようやく肩の荷をおろせる、と安心していた頃だった。


いつものように仕事をしていると、自分の本籍の再生コンサルティング会社の社長から電話がかかってきた。

「話がしたいので、(松本市内の)本社まで来てほしい」

(・・・何の話だろう?)

僕の会社の社長は、僕が出向している会社の社外役員でもあったので、実は毎週松本市には来ていたのだ。しかし、僕が会うのは2週間に一度程度、それもじっくりと話すことはこれまでほとんどなかった。

待合せの場所に行ってみると、社長から開口一番に、

「実は、残念な知らせがある。
 黒田さんはこの案件から外れることとなった」


・・・外れる!?それは、取締役をくびってことですか?

よくよく話を聞いてみると、実はこの3週間ほどの間に、Kさんと前社長が親会社の社長のところに足繁く通い、僕がどれだけ組織人として欠陥があるかを告げていたようだった。
(ちなみに親会社の社長というのもKさんと同じ銀行の出身で、銀行を辞めてこのグループ会社の社長になった方でした)

そして、親会社の社長と僕の会社の社長との間で、話し合いがされたらしい。
話し合いの結果、僕が出向している子会社に銀行出身者とコンサル会社の2者がいると、現場の人間がどっちを見ていいか分からなくなり、混乱するだろう。だから、僕を外して(くびにして)、銀行出身者だけで支援していく、ということになったとのことだった。


やけに静かだと思っていたら、裏でそんな動きがあったとは・・・

この瞬間、僕ははっきりと敗北したことを悟った。

政治的な動き、根回し、そしてそれを悟らせないようなしたたかさ・・・

(さすが年の功だな)

と、素直に負けを認めることができた。


最後に僕の会社の社長からは、

「このように決まったからには、できるだけ早く引き継いで、引き上げるように」

との話があったため、この日から1週間後を最後の日とすることとした。


こうして、僕は取締役就任後、わずか1か月で退任(事実上のくび)することとなった。
よくは知らないが1か月の就任期間というのは、たぶんめったにお目にかかれないくらいの短い記録なんだろう。


◆僕の教訓
起こるべきはずのことが起こらない時は要注意。
水面下でものごとが進行している場合がある。
とうとう念願だった取締役に就任する日がやってきた。


しかし、僕の心の中は複雑で、本心から喜ぶことができなかった。

当初の目論見では、取締役に就任したら、権限がなくてこれまで取り組めなかったことにもドンドン手を付けていくつもりだった。

しかし実際には、僕はこの頃何をしていたのか?

そう、僕はとにかくおとなしくしていた。
目立たぬよう、波風を立てぬよう、気を使いながら、慎重に過ごしていた。

もちろん、前回の弾劾裁判の時に指摘された通り、Kさんには「K社長」と役職をつけて呼ぶようにもなった。

新しく借りたワンルームの部屋に布団や家具、家電製品等を取り揃えて、引越しの準備も進めていた。

取締役就任直後に、Mさん主導で新経営陣による経営会議が行なわれたが、何も決めない、何がしたいのかもわからない、そんなひどい会議だった。
これまでの僕だったら、

「この会議の目的は何ですか?合意事項は何ですか?」

と、すぐに噛みついていただろうが、この時だけは何も言わず、ただ淡々と会議が終わるのをぐっと我慢していた。

その頃、僕が本当に息を抜けるのは、僕の上役の人たちの目が届かない場所、すなわち僕の担当するホテルに帰ってきた時だけだった。
そこでは、今までと同じように、精力的にお客様のお出迎えや配膳のお手伝いにと動き回っていた。


そんな僕に対して、K社長やMさんの態度はどうだったか?

2人ともよそよそしいままではあったが、僕に対してああしろこうしろとは言わなくなった。
逆に怖いくらいに僕に対して何も言ってこなかった。
(今思えば、何も言わないことにも理由があったんだなあ、ということがわかっています。
 まあ、今更わかっても遅いんですけどね。)


僕が、この頃に考えていたことはただ一つ。

(時間が経てば風向きはよくなるはず。今はじっと我慢だ)

そう、自分を殺して我慢していれば、時間が全てを解決してくれると信じていた。


そんな、僕の気持ちが完全に裏切られ、どん底へと突き落とされるのは、取締役に就任してからわずか3週間くらいしか経っていない頃だった。


◆僕の教訓
人間関係が大きく壊れてしまった後では修復するのは困難。
壊れないための予防が大事。