家康を恐れなかった大久保彦左衛門  家訓その7(戦国漫遊録  第130回) | 戦国武太郎の戦国漫遊録

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戦国に関するエッセーです。

 

 

 

                                   大久保彦左衛門

 

 徳川家康の忠臣で歯に衣着せぬ直言で有名な大久保彦左衛門(おおくぼ・ひこざえもん=忠教)。江戸幕政が安定するにつれて武勇は用済みとなり、官僚が幅を利かせる世になったことを嘆いています。

 

これは何も彦左衛門に限ったことではありません。股肱(ここう)の臣である本多忠勝や榊原康政、酒井忠次らも同様でした。

 

命を懸けて家康を盛り立て戦場を疾駆した武者が世が落ち着いたら、知行はたったの10万石でした。他の外様大名が40万石、50万石という領国を与えられたのにです。悔しかったろうと思います。

 

その不満を彦左衛門は代弁しています。その家訓書ともいえる「三河物語」から白眉を抜粋します。

 

 出世する者の5カ条を挙げています。①主に弓を引いた者②怪しい者に笑われ者③立ち回りのうまい者④そろばん勘定のうまい者⑤他国人です。

 

は明らかに家康の最側近である本多正信を指しています。忠勝も康政も正信を憎んでいました。⑤の他国人は細川忠興や黒田長政らを指すのでしょう。

 

続いて出世しない者の条件をも5つ挙げています。要するに窓際族です。①忠義一筋に働いた者②武辺した者(武勇の士)③礼儀作法を知らぬ者④そろばん勘定ができない年寄り⑤譜代久しき者です。

 

何という皮肉でしょう。①②などすべては自分らのことであり、戦国期に重臣だった忠勝や康政のことです。怖いもの知らずの彦左衛門しか言えないことです。

 

織田信長の時代でも森蘭丸ら官僚派の台頭が始まろうとした時、謀反の張本人の明智光秀はもちろん、武功派の柴田勝家や丹羽長秀らもいずれ左遷されるという状態でした。

 

秀吉にしても加藤清正や福島正則が蛇蝎(だかつ)の如く嫌う官僚派の石田三成らが実質的に秀吉政権を切りまわしていたのです。清正や正則の出る幕はなかったのです。

 

幕藩体制が盤石になって同じことが起こりました。彦左衛門にはもう家康に直接会うことも叶わなくなった悲しみがあります。戦場ではともに馬を疾駆させて身近な殿だったが、今は遠い存在です。

 

時代の移り変わりはある意味残酷かもしれません。怒りも抱えてこれを書き残したのですが、お咎(とが)めはありませんでした。

 

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