「それでも、武人か?」
「潔い」と言う言、死語でしょうか?
諦めると潔い良いを同じにしてしまっていませんか?
まあ、似て非なるモノで有ると思います。
「潔い」それは、諦めた瞬間、諦めなければならない瞬間を点で捉えているのだと思います。
そして、その思いの、中には色々な判断、色々な思考が織りなされて居るモノである、
まさに、「死」をも辞さない覚悟が裏付けとしてあるから、「諦める」と意味はほぼ変わらない?様に思えても実はその意味に於いては、雲泥の差があるのでは無いでしょうか?
諦める事に、悔いを残さない、それ迄の自分を昇華させる強い想いさえその意味に含まれているのが、「潔い」で有る筈です。
相手も、自分もしっかりと評価出来た上での諦めは、かまさに潔い心と言えるのだと思います。
相手を評価できないで諦める事は、怨にかわり未練を残し、雑な愚痴や批判や批評、悪口になって残ります。
自分の為し得ない行為や行動は、全て否定に変わって行くのです。